カメキチの目
前にAIのドラマ、映画をみて未来技術について考えさせられたけれど、こんどは『フェイクニュース』というドラマをみて、玉石混交さまざまな情報がとび交う現代社会について、情報に「踊らさせられない」ためにどうあればいいだろうと考えさせられました。
(「技術」をハード面とするならば「情報」はソフト面で、ともにきちんと考え、管理しなければならない現代の極めてたいせつな問題だと、あらためて思った)
ドラマの終わりの場面だけ書きます(制作者のメッセージが凝縮されているかのようで印象的)。
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・どこにでもいるようなオッサン(勤勉・真面目で小心者でやさしい)が副主人公。
この男がある日、カップ麺を食べようとしたら青虫が入っていた。彼は憤慨し、すぐにこの事実をスマホでSNSに書きこみ、発信した。
その憤慨に共感した「善意の名もなき人々」はすぐに拡散した。
「青虫事件」は発信され、「情報」となった。
いったん「情報」となったものは発信者本人を離れてひとり歩きを始める。生きもののようだ。
たいていは難なくおさまるけれど(「情報」は「うわさ」「風評」に化けることも。《思いたくないが》ときには意図的にねじ曲げられ、世間があわてふためく姿を楽しむ者も出てくる)事実が、いつの間にか虚偽の「フェイクニュース」になることもあり、(もちろん、反対に虚偽が事実とされることも)そのニュースをめぐってさまざまな人々、企業などの思惑がからんでくる場合もある。
ややこしい事件へと発展することもある。
ドラマはそんな現代のネット社会、SNSの危険な面を警告するのです。
主人公(ネット新聞記者)は「フェイクニュース」の真偽、事実を明らかにしようとする。
でも、それはたいへんな苦労を要した。
(別なドラマ『リーガルV』《弁護士の物語》のある話では、SNS情報を事実かどうかを確認しないで《おもしろ半分的に》拡散した人々が、そのウソ情報のせいで被害を受けた人が事実無根を裁判所に訴え、主人公弁護士たちの力で勝利、拡散者たちも加害のいったんをかついだことにより損害賠償が請求された)
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その情報がホント(事実)なのか? それともウソ(虚偽)なのか?
事実がウソかどうかということがいちばんだいじなんですが、ドラマをみて、「情報」というものに対する私たちの姿勢・態度のあり方もとてもたいせつなのではないかと強く感じました。
情報の受けとめかた。受けとめるときの態勢ということ。
(なぜなら私たちは発信者となるより、受信するほうになる場合が圧倒的に多く、その「情報」が事実かどうかを判断しなければならなくなる)
終りころの場面で、オッサンが、大勢の聴衆を前に(「フェイクニュース」騒動の発端になったことを)謝罪しながらも叫ぶように言うのです。
「みなさん、深呼吸をしましょう、落ち着いてください。お願いします…」
落ち着いて、冷静になって、他人の言うことをしっかり・ちゃんと聴こうと。
よくよく聴いたうえで、自分の頭で考え、(その情報に)どう対処するか判断しよう。
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現代社会は、
目に見えること(ということは数学的に計測できる。または言葉どおりの「外見」)、性急な結果ばかりが求められている。
教育などまさにそう、子ども時代から。
私はツィッタ‐のことは(やっていないので)仕組みや実態をよく知らない。
「知らないのに、言うなよ」ですが、いろいろな現代ドラマではSNSによる罵詈雑言の類をよく見かけ、すごく不愉快になる。
酷いのは、「死ね!」とか「クズ」(思慮ぶかくない私はとたんに反応する。せいぜい返せる言葉は「そう言うアンタも死ね!」「オマエもクズ」くらい。でもこれでは「憎悪の循環」。自分も同罪。私自身がまずは落ち着かなければならないのだ)。
「死ね!」とか「クズ」とは書かなくても(北朝鮮の金には去年、それに近いことを言っていた)、こともあろうにアメリカの大統領が国民みなに大きな影響を与える政策につながってゆくであろう思いを「ツイッター」で表明するとは私にはわけがわからない。
ともかく、
「憎悪」に満ちた言葉は、人から生きるエネルギーを奪いとる。
何かしらの「情報」を前にしたら、まずはいったん、ワンクッション、深呼吸をしよう
21日の朝日デジタルに山腰さんという大学の先生の「フェイクニュース」についての記事があったので参考に載せます。
【引用】
「ポスト真実」はもはや、現代社会のキーワードの一つとして定着した感がある。その結果、メディア政治やジャーナリズムの世界では何が「フェイク」なのかをめぐる「政治」が展開している。今回のアメリカの中間選挙(11月6日)では、大手のソーシャルメディアがトランプ大統領を支持する極右系のアカウントやページを フェイクニュースとして次々と削除した(朝日新聞 2018年9月8日)。
一方で、トランプ大統領や一部の支持者たちは主流メディアこそがフェイクニュースだと批判している。テレビカメラの前でCNN記者をののしり、ホワイトハウスから追放した選挙後の大統領の記者会見が典型的である。
中間選挙については、NHKの「クローズアップ現代+」(11月5日放送)が示唆に富む内容であった。
アメリカではインターネットの政治広告にかける費用が2千億円を超え、4年前の24倍に成長した。今日的な政治広告は「怒り」や「共感」といった感情の喚起を主目的とする。ビッグデータを活用しつつソーシャルメディアを介して個人に到達するそうした政治広告の中に「フェイク」が混ざる。フェイクニュースはそうでないものと比べて1・7倍リツイートされ、6倍の速度で拡散するという。ソーシャルメディアや政治広告の今日的展開が政治コミュニケーションの構造を大きく変容させ、民主主義への危機感が広がりつつあることが改めて理解できた。
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対立と分断が進む民主主義社会の中で、ジャーナリズムは幾つかの困難な課題に取り組むことが求められる。第一に、一部の政治家やニュースメディア、ソーシャルメディアが発信する「フェイク」を批判し、正しい「事実(ファクト)」を提示することである。第二に、「フェイクニュース」という自らに向けられた批判に反論し、ジャーナリズムの正統性や重要性を示すことである。
第一の課題については、国内外のニュースメディアが様々な取り組みを行っている。例えば9月30日の沖縄県知事選では欧米と同様、「フェイク」を交えた情報戦が展開されたが、「ファクトチェック」も積極的に行われた。地元紙・沖縄タイムスはファクトチェックのチームを作り、ネット上のフェイクニュースを検証した。ネットニュースのバズフィードもネット放送も含めた情報について、詳細なファクトチェックを行った。「フェイク」を暴くことは、隠された事実を掘り起こすというこれまでジャーナリズムが伝統的に行ってきた実践の延長線上にある。この点において、公文書改ざんをめぐる調査報道とも通底する。
第二の課題はより困難を伴う。なぜならば、「我々は真実を伝えている」という主張やその実践が、正統性を持ちえないからである。トランプ支持者にとっては、大統領のツイートこそが「真実」である。ソーシャルメディア上の伝聞と主流メディアのニュースとを区別しない人も多い。結局、こうした難問が生まれる背景には、「ニュースとは何か」ということが社会で十分に理解されていない状況がある。
…
こうしたニュースの捉え方は「真実など存在しない」というニヒリズム、あるいはポストモダニズムのようにも見える。しかし、この視点にこそ、「真実/フェイク」の二元論で展開されている現代的な対立や分断を打開する手がかりがあるといえる。
なぜならば、ここではジャーナリズムの正統性が、ニュースの「選択」と「編集」の妥当性に求められるからである。それは、「我々こそが真実である/彼らはフェイクである」という主張に聞く耳を持たない、あるいはそのような論争それ自体に嫌気がさしている人々に対して、説得力を持つのではないだろうか。
もちろん、ファクトチェックの重要性は大前提である。それに加えて、「ニュースとは何か」について理解を深めることが、ジャーナリズムの存在意義を示すためにも、さらにはポスト真実の時代の困難性を解決するためにも求められているのである