カメキチの目
あけましておめでとうございます。
本年もよろしくお願します。
放 下 著
ほう げ じゃく
どの禅語の本にも初めのほうに載っているくらい有名な言葉です。
(突然の事故に遭って身体障害者となり、「どうしたもんじゃろ?」とボッーとしていたとき、たまたま本屋さんの目につくコーナーに禅語の紹介している文庫本が並べてあるのを手にとり、気にいってすぐに買った)
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他の禅語もそうですが、解釈・紹介はおおかた同じでも、小さなことやニュアンスは述べる人によってさまざまです。
私が出あったその本には、意外なことが書かれていた。
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財物など目に見えるモノはもちろん、名誉・地位といったような社会的な「飾り」(といって悪ければ「価値」)ーここまではよくわかるー
だけでなく、「記憶」や「思い出」といったまったく個人的、精神的な、心に属するものまでといわれるのです。
私は「思い出」のたいせつさは強く感じているし、自分でもあっちこっちで(このブログでも)主張しているので、「意外」をこえて「ショック」といえるほど心にズシンときました。
著者である禅僧は、「捨てようか、捨てまいか。どうしよう?」と迷っているならば、その「記憶」や「思い出」を(神仏を信ずる者ならば神仏、信じない者ならば何かの超越者・絶対者)に生きている間の「仮のもの」としていったんは預けたらどうだろうといわれる。
(「預ける」のだから、捨てるのじゃないのです。「やっぱり…」と思ったときは引きだせばいい。思い出せばいいわけです。でもだいじな「記憶」「思い出」は忘れない)
すると人生には、モノだけではなく心にも不要なものが予想以上(驚くほど)にあり、それにこだわって生きるエネルギーを浪費していたことに気づけばしめたものと続けられる。
そうか、心の内まで「断捨離」か。