カメキチの目
最近、『家事の政治学』(題名を聞くだけではかたそうな本)を読みました。
かたそうでも、書名に惹かれた。
本との出あいも偶然で(どなたかの紹介でも「偶然」)おもしろい。
読みたくて借りた本ではなく、(図書館の本を検索していて)たまたま目につき、おもしろそうと思い借りました。
これは大当たりだった。読んでよかったです。
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「家政」とは、「家事」を(家庭内にとじ込めず)家庭外のさまざまな社会的な視点からもみた広い表現らしく、定義はいろいろあるようです。
言葉を聞いて、私は中学生だった大昔、一週間に一授業、男子は「技術家庭」女子は「家庭」という授業科目があったことを思いだしました。
(いまの若者には「信じられない」と言われそうだが、昔は公の教育でも「男は外」「女は内」と豆まきみたいなことが通っていた。当時はいくら戦後民主主義教育といっても人々の意識がひとりでには男女平等になったわけでなく《「教育」とは長い時間をかけるもの》、それを「おかしな?こと」だと一部の先進的な方は別として、大多数は捉えていなかった。父母の姿から男女とは、その関係はこういうものだろうと思って育った。男と女の働きの違いは身体の違い《性差》からきた自然なものだと単純に思っていたのだろう。というか、「差別」というみかたはまだもっていなかった)
働いていたころ、「男女参画…」が声高に叫ばれました。「看護婦」が「看護師」(「保母」が「保育士」)になった。私のところでは「婦人」を「女性」と書かなければならなくなった。
(その前には「メクラ」「ツンボ」「ビッコ」「クロンボ」…などが差別用語とされ、だんだん世間でも使われなくなった。書きかたでも「障害」が「障がい」とされた)
さまざまな職業が男女を問わずにできるようになったのはすばらしい。
(が、「大工女子」「土木女子」…などと聞くと、「好きなのはわかるけれど…」「気をつけてください」と声かけたくなる。先日、テレビ番組で秋田県のある地方の「熊対策」担当が《熱意はあっても》女性なのには首をかしげ、「そんな危ない仕事は男の職員がやればいいのに…と思いましたが、きっと男性職員に熱意のある方はいなかったのでしょう)
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「火星」のほうを「家政」より現代ではよく聞きます。
「家庭科」「家政科」という名称の高校のコースはいまも健在なのでしょうが、一般的な「家政」という言葉は死語にちかくなってきているのではないかと思われます。
・本のなかほどに、こんな部分がありました。
【引用】
「産業革命が完成されていく中で家政学が出現してきたことは、また、家政学は、産業革命がもたらした家庭生活、家事労働の変化に対して、それを何とかより良い方向に変革しようとする意識を内在させていた。また、だからこそ、はじまったばかりの家政学は家庭からユートピアを生み出そうとしていたのである。
家政学は一方では、家庭内の労働を解放していくものとして考えられたが、しかし他方では、日本の初期の家政学に見られるように、女性の家事労働をとおして、家庭を国家的に管理するポリティカルな装置として機能したともいえる」
・また最後のほうにこんなことが書かれていました。
【引用】
「家政学は労働や貧困の問題を家庭生活の側から見ようとしていた。ハイデンはその家政学が対象にした家事労働を、労働を発見したマルクスやエンゲルスすらも意義のある仕事とは見ていなかったと指摘している。…
労働や貧困、災害や戦争、市場のシステムや過剰な消費、理想の家庭・ユートピア。いまだ解決されていない近代の問題を、家庭生活(家事労働)を中心にして思考しようとした家政学の視点はすでにはるか以前に忘れ去られているように思える」
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日々の暮らし、朝おきて夜ねるまで、あたり前のように住まわせてもらっている家屋そのもの、家屋のなかの台所(キッチン)・便所・…家電製品などのモノ(水、エネルギーとしての電気、ガス、油などがないと役にたたないが)にも、私はあらためて目を向けてみることになりました。
そして、「労働や貧困、災害や戦争、市場のシステムや過剰な消費」は家政学の出現から一世紀も軽く過ぎさったいまも続き、「理想の家庭・ユートピア」の実現どころか人類の存在、生存さえ危うくなっています。
本を読んでの感想を、これを含め3回に分けて述べます。