カメキチの目
『老いの空白』シリーズも7回目となりました。きょうでおしまい。
最後は鷲田さんの「まとめ」のようなものですが、そのまま本の叙述にしたがって書きます。
⑥ ・高貴なまでのしどけなさ
・通り抜けるものとしての家族、あるいは「その他の
関係」
・一枚のピクチャアへ
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【引用】
「高貴なまでのしどけなさ
(栗原彬)「…カントのこの礼節(死ぬ間際であっても、カントは往診してくれるドクターを部屋に迎えいれるために、自ら立ってドアを開け挨拶をする)は、…ほとんど無意味な行為といえます。それはエネルギーを浪費する行為であり、いわば無為の行為です…しかし、私はカントの文字どおり命をかけた無為の行為に心動かされます…」…」
人はだらしなくみえても、最後まで人としての尊厳にみちた姿でありたいという意味のことらしい。
たとえ外見はだらしなく見えても尊厳にみちてると思いたくなるような姿・態度。
現実の場でもテレビなどでも、あんなふうな顔になりたいな、あんなふうに老いたい…と思わせるような老人の姿をみかけることがあります。
粗末な服を着ていても、洗濯され破れたところは縫われている。
たとえヨボヨボ、みすぼらしくても、どこか凛としたものを感じさせるお年より。
憧れる。
鷲田さんは、社会学者の栗原彬さんのカントを述べた文章の次に、ビルマの死刑囚が刑場へむかって歩いているとき水たまりをよけて通った話を述べます。
まさに死のうとしているときに水たまりをよける。その「余計な」行為は、何と人間の密度に充ちていることだろう…と。
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【引用】
「通り抜けるものとしての家族、あるいは「その他の関係」
(鶴見俊介の言葉)「物になれば、宇宙のさまざまなものと一体になるので、そんなに寂しいわけではないんですよ。自分が、やがては家族にとっても「見知らぬ人」となる。そして「物」となって終わる。死体は物ですからね。存在との一体を回復するわけですね。
どんな人でも、家のなかでは有名人なんです。赤ん坊として生まれて、名前をつけられて、有名な人なんですよ。たいへんに有名です。家のなかで無名の人っていないです。それは、たいへんな満足を与えるんです。そのときの「有名」が自分にとって大切なもので、この財産は大切にしようと思うことが重大なんじゃないですか。私は、人間がそれ以上の有名というものを求めるのは間違いではないかと思いますね。
最後は、お互いに見知らぬ人になり、そのときには家族のなかでさえ無名人です。やがて物になる。人でさえない。そのことを覚悟すればいいんです。…
自分は、かつて家のなかで有名な「者」であった、その記憶を大切にする。そして、やがて自分は「物」となって、家族の者にとってさえ見知らぬ存在になっていくという覚悟をして、そして物としての連帯に向ってゆっくりと歩いていくという覚悟をもって、家を一つの過渡期として通り抜ける。それが重要じゃないんでしょうか」
を引いて鷲田さんは最後に述べる。
「惚け」ということを考えるときに、ひとがとりうる最後の立場とは、おそらくこれだろうとわたしはおもう。…」
長い引用のあとの、「「惚け」ということを考えるときに、ひとがとりうる最後の立場とは、おそらくこれだろうとわたしはおもう」とまで書かれ、こっちまで著者の感動が深く伝わってきました。
家族と自分の根源的なつながりということも深く感じざるをえません。
ニュースなどでの親による「虐待」の酷さを想うとたまらない。それが「虐待死」となれば…。
(そんな親でさえいなかったら自分はこの世には存在していなかった。「わが人生」な
どありえなかった。
あまりに辛い、酷い事実・現実の前に、人はしばしば「はじめから私はいなけりゃよ
かった、生まれなければよかった…」と思うけれど、「生」は自らが選択できるもの
ではない。「死」なら自分で選べる。だから「自死」「自殺」はなくならないのか)
自分は、かつて家のなかで有名な「者」であった、その記憶を大切にする
私は「家族」というものを、「名前」(自己存在の社会的な証し)をとおして考えたことがなかったので、この言葉はすごく印象的でした。
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【引用】
「 一枚のピクチャアへ
「作る」ものではなくて「浮かび上がる」である。そう、「する」のではなく「ある」のなかで浮かび上がるものである。その意味では、制御不能なかたちでカレイドスコープ(万華鏡)のように漂う遠い過去の記憶たちもまた、老人そのひとにとって、たんに懐かしいというよりも、なぜそうした情景が迫ってくるのかじぶんでも了解しがたい他なる光景なのである。ひととの出会いは偶然的なものであり、その偶然的な出会いによって、ひとの生涯は編まれる。…」
老いてくるとさまざまな昔のこと、過ぎさった過去のできごと、遠く子どものころのことであっても思いだされ、なつかしさにとらわれることがだんぜん増えてきます。
その際、「浮かび上がる」で、死ぬときよくいわれる「走馬灯のように…」を私は思いだしました。が、「一枚のピクチュア」(この表現は著者だけのものではない)は「老いて」のことで「死にぎわ」ではありませんでした。
(でも死ぬ経験を言える人はいないのだから「走馬灯」か「一枚のピクチュア」か、他のなにかなのか、実際のところは誰にもわからない)
そして、「思いだそう」として、つまり意識して過去のことを引っぱってこようとするのじゃなく、「思いだされる」のです。そのことが「「する」のではなく「ある」」ということなのでしょう。
老いてますます「ある」ということ、「受けみ」の重みが増す。
「思いだす」より「思いだされる」ことが多くなる。
「その意味では、制御不能なかたち…」というように、なんで思いだすのかわからないようなこと、別になつかしいと思わないようなことでも思いだされてくる。
なんだか、夢みたいですね。