カメキチの目

2006年7月10日が運命の分かれ道、障害者に、同時に胃ガンで胃全摘出、なおかつしぶとく生きています

2019.3.29 『植物のこころ』

          カメキチの目

 

 

 植物にこころ

 

『植物のこころ』(新書)を読んだ。一般向けのものだからわかりやすく、とてもよかった。

 

  私は高校に「生物」という科目はなかったので、中学の理科第二分野ていどの生物知識しかなかったのに若いとき、「生物学的次元で人間をとらえてはいけない」とエラそうなことをよく思っていた。

(私の若いころは頭の中は「人間」や「社会」のことだらけ。人間以外の生きものは目に映ってはいても、そこから先へ進むことはなかった

 

  若いときは、それほど「人間主義」「ヒューマニズム(いまは死語?)という言葉に酔っていた。

「ヒト」は霊長類に分類された生きものの一種にすぎないというのに、「生物ピラミッド」の頂点に位置しているということで、ほかのいろいろな生きものより優れていると無意識のうちに思っていた。

(いや、そう「思いこむ」ような社会と時代の状況が当時の日本にはあったのだろう。「高度経済成長期」。人間の力が単純に信じられた) 

 

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 読んで、主題の生命」のフシギを植物から教わるということのいったんを教わった気がしている。

 

 植物は、ともかく先ずは生えてみて、たまたま生えたところの環境に合わせて体の形を決めるのだそうだ。

(先ずは生まれ、そこからすべてが始まる人間といっしょだ)

 植物が生えて、いちばんにやることは「節を作る」こと。節は茎にも葉にも花にも変化するらしい。

 植物は節を作るなかで環境に合わせて体の形を決めるのだそうだ。

 

【引用】

これはまさに節を作ることにほかならない。なぜかというと一般に、茎の周りに並んでいる葉は、茎の節の部分にできるものだからである。植物は成長の間、つねに葉を作り続けているわけで、それは節を作り続けていることにほかならない。花はどうかといえば、あれも同じである。というのも、花びらや雄しべは実は葉が変化してできたもので、それを支えている茎は、とても短いが、ちゃんとある。…

こうしてみると、植物が成長し大きくなってゆく過程というのは、節を作るという意味において、動物が胚発生の間にやっていることと、本質的に同じなのである。

純化して言えば、動物は体の節を決め終わったところでこの世に生まれ出てくるのだが、植物はこの世に生まれ出てから、体の節を作り始めるのだ。。

これは植物の生活型と密接に関係がある。植物は、一か所に固定して生活する型の生物である。そのため、生活する環境に体の方を合わせないといけない。もし、生まれる前から体の形が決まっていると、生えてきた場所とうまく合わない可能性がある。植物はそこで、まずいったん生えてきてみてから、様子を見つつ、その場所の環境に合わせて体の形を決めることにした。そのためには、いつでも融通のきくよう、体の一部を常に胚と同じにしておくのが適切だったのだろう。

そこで分化の全能性が現われた。…

 

 私たち人間だって、一人ひとりはたまたまこういう姿・形、性質、能力を持ち、ああいう親のもとに生を享け、そこは植物とは違い意志を持って生きるけれど、彼ら植物が嵐で傷つき、旱で干からびるように、私たちも生きにくさから挫折することがある。

(挫折しても、植物の健気な姿を見て、励まされる)

 

美容のための整形は体の隅々にまで及び、盆栽の剪定なみに気軽に行われるようになるかもしれない。いや、それどころかソメイヨシノのように美しい個体は、クローンで増やされる時代も来るかもしれない。それを不気味と思うかどうかは、植物的な生命観をヒト社会にも受け入れることができるかどうか、という一点にかかっている。…

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 整形だけではない。長生きしたい。「欲望」に果てしのない人間。

 欲はいいけれど、いい加減にしなければならないのではないだろうか。

 

 植物の姿から、人類の生き残りのヒントを得られそうと思った。

 

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                          ちりとてちん

 

 

 

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