カメキチの目
私も思春期の初めころは(初めだけ)麻疹に罹るみたいに、「自分」とは?「生きる」とは?といちおう悩んだ。
人生訓(マニュアル本)の本をいくらか読んだ。
しかし、ほとんど「素直」「誠実」…礼賛ばかり。学校の道徳の延長にすぎなかった。
考え方・心のありかた次第で人生・世の中は変わる、
曲がっていては世の中のすばらしさがみえない。
私の性根を責められているようで、「説教」に思え、そのうちウンザリし、読まなくなった。
(ふり返れば、そのころから社会に反発するようになった。自分のいたらなさを《直接には》他人のせいにしなくて「社会」のせいにした。
確かに自分の心はまっ直ぐではないが、世間の方に自分を合わせる、不合理で汚い社会に自分を合わせるのはイヤだった。「素直」=「従順」としかとらえられない未熟者だったわけだ。老いた今、多少は変わってもあまり変わらない)
そのご触れるようになった哲学。
学校で習ったような「道徳」は複雑になり、「倫理」となった。それは「矛盾」を認める。そういう哲学的な考えにひかれた。
「そもそも…」と考えてみる。
(「そもそも」はいいが、「理屈」をこね回しすぎ、けっきょく述べられていることがよくわからないのがある。そんな本は途中で投げだす)
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最近、たまたま見つけた哲学者の新書本『夢よりも深い覚醒へ』。
書名に惹かれて読んだ。
(哲学ずきより文学ずきが好きになりそうな書名。著者は大澤真幸さんという)
副題が「3.11以降の哲学」とあった。
2011年の東北大震災の「歴史的」とまでいわれる原発事故を、どのように私たちは受けとめればいいのか(いや受けとめるべきなのか)ということを中心に、「正義論」(私は知らなかったのですが、そもそも「正義」はあるのか?あるとすれば正義にのっとった生き方とは?と問う哲学のしかたの一つらしい)として、具体的には「原子力は人類にとって正義なのか?」が論点として展開される。
私には魅力的な中身だった。
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著者は本の初めで、原子力発電は廃止すべきであると明確に述べられる。
(本の内容すべては、なんで原発はやめなければならないのかの理由づけといっても過言ではありませんでした)
ここでは、そのなかの一部(でも、普通の読者にはいちばんわかりやすい原発廃止理由になっていると思う)、「偽ソフィーの選択」をあげる。
(私はみていないが)『ソフィーの選択』という有名な映画があるそうだ。
(映画の詳しい説明は省き)主人公ソフィーは母親で二人の子どもとともにナチスに捕らわれ絶体絶命の危機に置かれているが、二人の子どものうちどちらか一人を出せ(出す=死)といわれる。ソフィーは苦悩のあげく、泣くなく一人を決める(選択する)。
以上が本物の『ソフィーの選択』。
ここで著者は一人は子どもだが、もう一人は「一億円」だったら、と考える(つまり、偽『ソフィーの選択』)。
もちろん、ソフィーは(おそらく、私たちの誰も)迷うことなく子どもを手もとにおく(「一億円」などどうでもいい)。
ここで著者は述べる。
原発維持は、なんだかんだと理由(原子力は《適正な管理がされておれば》安全で安あがりなエネルギー源。地震などの自然災害への安全対策は徹底する。原発がテロや戦争の標的にならないよう自衛力を高める。それなしでは資源の乏しい日本はやっていけない)を並べるけれど、けっきょく「経済」をたいせつにする。
「いのち」ではない。
「一億円」を選ぶ。
【引用】
(ソフィーの選択の手のうちにあるのが二人の子どもではなく、一人の子どもと一億円だったとしよう)この改訂版ソフィーを「偽ソフィー」と呼んでおこう。オリジナルの「ソフィー」を、どうして偽ソフィーに変換したか、ただちに理解できるだろう。原発を廃止しようか、それとも維持しようかという選択は、煎じ詰めれば、この偽ソフィーの選択と同じ形式をもっているのである。いかに複雑であろうと、原発がわれわれに与える利益は、究極的には、経済的なものである。…
私の愛読する北海道在住の若い男性ブロガーさんは、先の大地震で大規模な停電が発生したとき、パチンコ店などが煌々と明かりをばらまいていることに憤慨された記事を書かれていた。
この前の地域ニュース(反響が大きく後には全国に報道された)は、東大阪のあるセブンイレブン店舗のオーナーが、自前の努力は「もう限界」(事業所勤めの労働者なら労基署がはいって、まちがいなく「過労死」と認定されるところ)と勝手に24時間営業をやめたが、契約は「24時間営業」なので契約違反となり、契約解除をセブンイレヴン本部が伝えてきたといい、(もちろん、「人手不足」が直接の背景、理由となっているにしろ)「24時間営業」自体の問題点も報道した。
「パチンコ店」のことはパチンコ、「24時間営業」のことはセブンイレブンのことだけではもちろんない。