カメキチの目

2006年7月10日が運命の分かれ道、障害者に、同時に胃ガンで胃全摘出、なおかつしぶとく生きています

2019.9.11 『都市と野生の思考』② 自由と所有

          カメキチの目

 

 

「自由」、「所有」ということについて、ふたつの

関係について考えさせられることがあった。

 

■ 「自由」について 

【引用】

自由と言われて思い出すのが、一時期よく言われた自由と自己決定を同一視する

風潮です。

典型的な例が障害者に関して、彼らが自由を獲得できるように自立支援しようなど

という動きがあった。ただし、ここで言われている自立とはインディペンデンス、

つまり非依存なんです。

自由イコール非依存、何にも頼らないという考え方に私は賛同できません。

相互依存のネットワークを必要に応じて使えることこそが「自由」であり、不安を

取り除いて安心につながるということです。

 

 何か障害があれば、その「何か」はできない。

(もちろん障害には程度《全然できないから少しならできるまで》があり、

「程度」は重要です)

 私はできないことは「不便」とは感じるけれど、

「不自由」とは感じない。 

 

 しかしそう言えるのは、自分の場合、いつもそばに

ツレがいてくれるからであり、彼女に「依存」

(ここでは言葉の細かい定義、正確さはスルーします)していることを

意味する。

 障害者になったように、また悪運の神におそわれ、

先立たられるような目に遭うことのないよう毎日

いのっているが、それとは関係なく自由を獲得したい。

自立したい。インディペンデンスがいい。非依存の身

でありたい。 

(上記のことは神仏の専権事項なので人間には口だしできません。しかし、

「ありうる」ことで、彼女はこの間から一生懸命、「終活」をやっている。

その一つに、こっちが残されたときは「これはこうする」「これはこにある」と

 

 しかし、「不便」とか「不自由」なことよりずっと

ずっとだいじなものを、障害者になって知った。

 こういう身体にならなかったら決して受けることの

なかった親切、やさしさを他人から受けた。

 負け惜しみで言うのじゃないけれど(いや、少しは

「負け惜しみ」?)、人が生きるうえでもっともだいじな

ことは何かということを感じている。

(ここでは「障害」=「障害者」として書いていますが、「障害」をハードルの

ように見れば、「障害者」だけの問題ではなく、誰の人生も「山あり谷あり」

「『まさか』という坂道あり」) 

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■ 「所有」、また「自由」との関係

(とてもおもしろいので、長い引用になりますがお読みください)

【引用】 

・自由のシンボルだった制服 

ここがおもしろいところで、自由を主張するために、フランス革命後の)市民

みんな同じ格好をした。つまり、それまでの差別や階級を一掃する革命は、

みんなが同じ格好をすることで完結した。だから自由な市民たちは、自発的に

制服を着るようになった。男性の場合は、それが現代までずっと続いている

わけです。→スーツ、背広服など

これは男権社会の「所有」の話につながるんです。男は自分たちの服装が地味に

なって統一されているのに、女性は華美な装いを競い合っている。財力を誇示する

ためだったんです。

だから、自分の所有物である妻や娘を着飾らせることには、男性にとって代理承認

の意味がある。

 

おっしゃるとおりで、ファッションの起源をたどればやはり男性、

要するにオスですね。ゴリラやライオンでも、オスだけが変更不可能な装飾品を

まとっていますからね。ライオンのたてがみやゴリラの背中の白い毛などは、

取り外しできません。それを人は変更可能なもので補った。それがボディ

ペインティングだったり、羽織りだったり、毛皮を着ることもそうですね。

 

・装いの起源は宇宙との対話

アルタミラ洞窟の壁画が1万8000年ぐらい前)それまでは自分の体を

装飾していたのが、その装飾を壁画として外に出した。おそらくは、ここで

大転換が起こったに違いありません。始まりは自分を着飾って何かに変身すること

だったのでしょう。それを誰かが見る。その次の段階として、変身した自分の姿を

たとえば壁画のように何かに写し出したのです。…ここには「多重性」という

概念の萌芽がうかがえますね。→ファッションの原理

「コメスティック」→「コスモス」)そう、コスモスつまり宇宙なんです。

コメスティックは、宇宙へのあいさつなんです。現代のコメスティックは、

他人に自分の姿をよく見せるための行為です。要するに見せる相手は他者ですね。

けれども起源としての化粧や装飾とは、宇宙や大自然を相手にしていたはず…

衣服が本質的に持っていた意味としては、社会性よりも先に、宇宙や自然、

あるいは他の生命との応答があったのではないでしょうか。… 

 

・憑依と女性の所有

ファッションはもともと変身や憑依による自己誇示のメディア(媒体)だった。

それが18世紀の終わりぐらいから、男性が女性を自己の所有物、つまり

Possession(ポゼッション=憑依)として誇示する手段になりだした。かつての

男性の華美な服装はモノトーンの地味なものになり、逆に自己の所有物としての

妻や娘や愛人をきらびやかに着飾らせることで、おのれの勢力を象徴的に誇示する

という、そういう変化がこのころ起こった。…

おもしろいですね。それは中世のキリスト教圏の神から許された厳格な

男女関係から自由恋愛が支配的になったことと関係があるのでしょう。 

 

・禁止が見えなくなった社会

自由とは、近代的な概念では「所有権を持っている」ということですよね。

自分の所有物を自分が好きなようにして、何が悪いのかと。

人に迷惑さえかけなければ、何をしても勝手ではないかという、これは近代的な

自由の概念の、最もオーソドックスな形ですね。…

「自由」「所有権」「処分権」は連携した概念になっている。

 

「自由」「所有」というと抽象的で漠然としており、

そうでない状態を具体的、リアルに思い浮かべると

黒白反転の原理でよく実感される。

 

「自由」

13年前の事故は障害者になった原因なので、身体が

不自由となってみて、自由な、つまり健康なときの

身体のありがたみを痛感した。

 

「所有」

(自分なりに)いっぱいモノを持っていたが(中には、そのうち

きちんと整理しようと思っていた仕事上の重要書類もあった)、あのとき

死んでいたら「すべてパァ」だったと痛感した。

 凡人の「私」という一個人がパァにならずにすむ

のは家族をはじめとする身近な人びとの心しかないと

思った。

(「思い立ったが吉日」。「終活」をした。「遺書」も書いた。

胃ガン術後の痛みどめが《私には》きつくて「ありがとう」の一言が口に

できなかった。死ぬ間際に感謝を伝えられなかったら死ぬにも死ねないなぁ

という悩みが解決してホっ!

その「終活」だけど、私は自分だけのこと、しかも「心」だけで簡単なのですが

ツレはたいへんそう《初めの方で書いたとおり》)

 

「所有」(「自由」も絡むかな)ということを思うとき、

(障害者になってすぐのとき、どういう心もちでこれからを生きてゆこうかと

悩んでいたとき読んだ本にあった)仏教学者のひろさちやさんが

子どもが生まれたとき、よく「授かる」といういい方

をするけれど、「私は『授かる』より『預かる』が

いいと思う」と述べられていたことが浮かぶ。

 子どもは天よりの預かりものというわけである。

 また、自分の命そのものだって天から預かった

ものだという。

(なんというラディカルな言葉、発想! 私はビックリした)

 預かったものは持ち主キリスト教的にいうなら「創造主」か)

に返さなければならぬ。

 

 ここを読み、危うく死ぬことなく障害者どまりで

すんだ自分の体験を思うとき「所有」、何かを(何かは

モノに限らない。究極は自分の肉体だって)「持つ」といっても、

自分に属すると思っていても、生きている間だけ、

この世で過ごしている間かぎりの、天からの

「預かりもの」「借りたもの」にすぎないと思おう

とした

(最後、「思おう」であって「思う」ではありません。エラそうなこと言っても、

今でも《より若いときよりはマシになったといえ》物欲に支配されている。だから

努力目標なのです)

 

 

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                        ちりとてちん

 

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