カメキチの目
(これで最後です)
本を読み、生きもの(動物)としての人間と、そうで
ありながらもそこにはとどまろうとしないかのような
(いいとか悪いとかの問題ではなく)人間の「欲望」を痛感した。
「欲望」は次から次へと新しいものを生みだし、その
新しくなったものは最近は「次世代」という宣伝文句
を得て新製品となり、「前の新しいもの」はとたんに
古い仲間に入れられる。
「必要は発明の母」というけれど、現代までの世では
そうであったかもしれないが、いまは「欲望」が
「必要」に取って代わったみたいだ。
(消費者の「必要」を待っていては他社に負ける。「欲望」は創らなければ
ならない。「今年の流行はコレです!」「こんな便利な機能がつきました!」と。
コトは最新機器みたいな便利・快適商品だけに限らない。そういうモノを活かす
ためにも、つまりその恩恵を味わうためにも、その当人が元気な身体でなくては
ならない。
「健康」「長寿」《できれば「若返り」「若さ維持」》でなくてはならぬ。
この記事を下書きしているとき、ちょうど「かめ」仲間の、亀仙人さんのブログに
相通じることが書かれておりました。
より快適より便利なもの、健康・若さ増進《それには「運動」「食事」といった
ものより、「薬」がより迅速で便利》は、やっぱりすばらしい!
ところで今、消費税アップを前にして、これが好機とばかりに《それがより経済を
活性化させるに違いないと企む》政府の音頭とりにより国をあげての、カード・
スマホ決済などを増やすキャッシュレス社会構築キャンペーンといったような波
《その関連会社は他社に負けじと「何とかペイペイ」と忙しく、ニュースなどでも
よく報じられています》が押しよせている。
「いつもニコニコ現金払い」が身にしみている私のような高齢者にはもうひとつ
ピンとこないけれど、いちいち小銭を財布から探すという手間に煩わされず、
快適に支払いを済ませられる便利さを知ってしまうと、それにポイントがつく
というオマケもつくと聞くと、その虜になることは必至。
どんな事柄でも、最終的な行き着く先というものがない、見つからない、つまり
「ベスト」がわからないのなら「ベター」しかない。
かくして「『ベスト』がわからない」人類は、永遠に「進化」、「ベター」の道を
求めて彷徨い続けなければならない生きものなのだろうか。
「ベスト」が先か「破滅」が先か)
「欲望」=「欲求」ではない。
「欲求」は、生きものとしての動物としての、自然な
ものだが、「欲望」はそうではない。
しかし、「欲望」は「欲求」が人間的に変化した
もののような気がする。
(歳とってからは「欲」が減り、若いときのように欲求・欲望バリバリ、ギラギラ
でなくなる。「少欲知足」をイイなあと実感し、人間はこうでなくちゃあと感じ、
「静寂」「穏やか」を愛す。
そんなこと、これまでなんども書いてきましたが、急にいま気づきました。
きっと、人間は一生のうち、下り坂に入ってからはじめ、「少欲知足」の価値を
理解だけでなく、感じることができるのでしょう。
若いうちは多くのことが「イケイケどんどん」「チャレンジ」…。
いつの時代にもどこにでも若者はいた。彼らの力・エネルギーがあったからこそ、
人類はここまできたのかもしれない。
ただ思うのです。若い人はそうなくちゃあいけない、情熱にあふれていてほしい、
ギラギラ輝いていてほしいのですが、世の中、社会自体が老齢化《長い人類の
歴史でみるとという意味。「老齢」より「成熟」の方が合っている》した現代は、
穏やかであってほしい。
《と自分勝手なゴタクを並べていますが、「現代の日本という国」に生まれて
いてこそ」言えること》)
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本にはよく、「性」(セックス)が出てきた。
人間の場合は「文明」「文化」というものが
登場してきてから、本能的・自然な「欲求」は
「欲望の世界にはみ出してしまった」という
くだりが見られる。
【引用】
人間というのは、生物学的な欲求のタガが外れてしまって、欲求から欲望の世界に
はみ出してしまった生き物ですよ。その欲望は実は、ストーリーつまり物語に
よってつくられます。だから僕らの性欲は、映像によっても喚起されるけれども、
チンパンジーが、異性のサルの映像を見て欲情することなんてありえない…
目に見えるものしか感じない、ということはすなわちリアリティがとても
薄っぺらいものになってしまったわけだ。視覚に頼るしかないから、ディープな
幻想をつくらないと興奮しない。…
一方で、性は公にして、みんなの前でやります。これには理由があって、性は
繁殖にかかわる行為ですから、誰と誰がペアになっているかというオス・メスの
関係性は、前面に出して全員に知らしめておく必要があるわけです。
でも食は個体体験だから、表に出す必要はない。…
性の世界が種の維持という公的な意味から離れて、個人の欲望の充足に向かった
からか。だからプライベートな意味になったわけですね。
■遠い昔をふり返ってみた。
これは本能的なもの生得的なものか、生きていく
うちにつくられたものかなどと、とくに思春期の頃、
「性」とか「愛」について、私も(たぶん)人並みに
バカみたいに悩んだ。
(「食」は生まれついてからのことなので日常生活のなかに組みこまれており
格別、意識することもありません)
「なんだ?…これは」
(中学生の頃はまだ性教育というものはなかったので、年頃になると「なんだ?…
これは」という身体の変化に悩ましくなった。こっちが先で、性への理解・認識が
後でした)
きちんと教わるところはなく、自分流に知っていく
しかなかった。
「自分流」というと自主・自律のイメージがあって
カッコよく聞こえるが、要は友人とのエロ本の
回し読み、Hな話から情報・知識を得たり、
成人指定映画をみたり…の野放図なやり方で、
しばしば間違ったものがまじっていた。
そういう「努力」とは別に、私の場合は男ばかりの
しかも全寮制の学校だったことあり、女子高生という
ような若い女性を目にすることはほとんどなく、
女性はみな「乙女」「マリアさま」に見えた。
■いま現在。
男性ホルモンは男は誰でも、老いても残っている
ように思う。
明らかに落ちてきたとはいえ、若いときからそう
そう変わらないようにも思う。
(Hした、セクハラしたというニュースはうんざりするほどある。報道されるのは
主に公務員。これに報道されていない女性の人権侵害《陰で侵されているものを
含めれば》どれほどいっぱいあることだろう!
それにしても、人間男の性の暴力的で野蛮、なんと自分勝手なことだろう。
自分自身、男でありながら強くそれを感じる。DVはもちろん、子どもの虐待を
はじめ、女性の犯す罪の背後には必ずといっていいほど男の影がちらつく)