カメキチの目
(きょうは、テレビの旅番組で心が熱くなったことを「ラパスのサッカー少年」
というタイトルで書くつもりだったが《それは次回にして》、いまは真反対の、
怒りでまっ赤に燃えている心境を書きます。内臓にまで飛び火した思い)
腸が煮えくりかえっている。
何に対してか?
「モリカケ」「トランプ」(最近は「香港」、「関電」のこと
もあり)など国や社会の不正・不合理・矛盾は限りが
ないほど多いが、「神戸の小学校教師の同僚いじめ」
ほど許せないと感じ、怒りくるったことは、長い(長くは
ないか)人生でもない。
「小学校の先生が…先生が…」である。
私には天地がひっくり返った出来事に感じられた。
愛読しているおしょぶ~さんが4日に書いておられ、初めて知って驚きました。
いまじゃ全国的に広がった。
あっちこっちで似たようなのが出てこないことを祈るばかりです。
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osyobu-osyobu-3889.hatenadiary.jp
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小学校教師が相手にしているのは、まだいたいけな
子どもである。
小学生は、
自我の芽ばえも生まれ、ちょっと生意気になってくる
中学生や、
教師といっても職業の「一種」、大人という人間の
「一種」だとわかる判断力、人を見る目も育ち、
反抗もしてくるようになる(教師を心のなかでは「センコー」と呼び
《なかにはちゃんと「先生」と呼んだ方もいます》、「エラそうにするんじゃ
ねーよ!」と突っかかることもある)高校生とはまったく違う。
私は小学校時代は子羊のように従順だった。
先生は親より偉いと信じていた。
いまもそれでよかったと思っている。
(もっとも中学校にいくと、「お前の成績ではここはムリ」という担任にムカッ、
次の学校では反抗的な私に学校は「退学させるぞ」と言い、それとは関係なく
自分から中退した)
自分自身の子ども時代を思いだして、ホント
そう思う。
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一時期、「教師は聖職かふつうの労働者か?」と
問われたことがあった。
私は「ふつうの労働者」「単なる労働者」とは、
そのときもいまも思っていない。