カメキチの目
書いた。
その歴史的な航空機の墜落事故。
国は、事故原因は(「流行語」になるようにまで繰り返された)
「圧力隔壁」とか「金属疲労」だとの35年前の発生
当時からの言い分を変えてはいない。
(同じことをくり返し聞かされていると、人は初めは疑っていても《とくに
相手が国のような権力者ならば逆らってもムダだと諦め》信じるようになる)
そのときから疑わしいといわれたそれらの原因が、
くつがえさせられそうな新たな発見、証言が出てきた
現在にいたっても、ぬぐえない疑問や不審な点に
答えるよう、遺族をはじめ、さまざまな立場の専門家
、ジャーナリストなどの関係者が求めているのに、
国は知らぬ存ぜぬ、忘れたと言って隠すどころか、
果ては事実の存在さえなかったかのように、事故の
全体像を闇のなかに葬りさろうとしている。
「歴史の偽造」をはかろうとしている。
(次に同じような事故を繰りかえさないために、最新の科学技術の成果を駆使して
真相の究明にあたらなければならない。
それでも真相が解明されないのならしかたがないと諦めがつく。納得する。
ところがこの大事故は、520名もの尊い命が失われたにもかかわらず、いまだに
納得がいかない。
生きていると次から次へと驚く、ショックを起こしそうにまでなるニュース、
事件や事故があるので、それらが古い記憶《どれほどは重大・重要な事実で
あっても》を上書きし、「上書き」まではいかなくとも忘れさす。
《忘れないと前には進めない。生きていかれない》)
しかし「忘れてはならない」、その事実を知らない
ならば「知らねばならない」ものが、人生にはある。
があり、あらためてコトの重大さを噛みしめた。
(ぜひともお読みください)
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■先の台風、大雨でも息をのむような被害の映像を
みた。
(「も」と書いたけれど、「も」なのです)
もう、こういう大被害は特殊なできごとでは
なくなった。
「一般的」「普通」「並み」になってきた。
被害に遭われた方が途方にくれた表情で話される。
そのようすを何度もテレビでみた。
あまりに酷い被災状況。
どこから手をつけていいのかまったくわからない。
せっかく生き残ったのだからここで死ぬわけにも
いかず、笑ってしまうしかないという感じ。
(このごろは、天気予報がとても詳しくなった。
空からの雲などの画像は精緻をきわめ、その科学的根拠にもとづき危険度レベルも
大幅によくなった。
避難を呼びかけるテレビは「いのちを…《「いちばんに」「守る」が続く》」と
叫ぶ。
それはたいせつなのだが、いちばんだいじに守ったいのちなのに、その後から
いのちを生きる糧《生活の再建、いわゆる「復興」》を心配し、不安にさいなまれ
なければならぬのなら、「あのとき死んでいればよかった」と思うのではないか
《私なら思うと思う》。
国というものの価値が試されるのなら、そこの国民であってよかったと思うのは、
自分がそういう災害に遭っても、その災害から守った、助かったいのちを、なんの
心配もしないでもこれからも生きていけるよう、国が助けてくれること。
それでこそ、「助かってよかった!」とすなおに喜べる)