kame710のブログ

2006年7月10日が運命の分かれ道、障害者に、同時に胃ガンで胃全摘出、なおかつしぶとく生きています

2019.11.8 『平成史講義』①‐天皇 

        カメキチの目

 

 

 老人は、先は短いが長い過去を持っている。

 年よりは誰も、年の分だけ長く生きている。

 

 長生きがいいことだとは思わないが、

あえてあげれば、それまでわからなかったことが

わかったり、納得がいったり、答えのようなものが

見えることがある。

「わかった」ところで腹のたしになるものじゃない

けれど、「これがわからんままでは死んでも

死にきれん…」と引っかかっていたことが一つでも

減り、穏やかな死を迎えられそうな気がする。

 

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 年とると、長い間、気になっていた昔の出来事

(そのときは気になっていたが、気になっていたことさえ忘れていた)

が、なにかの拍子に突然、思い浮かぶことがある。

 

 その出来事が社会的なことであれ、個人的なもの

であれ、じつはこういうことだったのかと意味づけ、

解釈され、そのときはよくわからなかったものが

見えてくることがある。

 新たな姿を帯びて浮かびあがることがある。

(自分だけの「人生ジグソーパズル」の一かけらが空白を埋め合わせてくれる

かのごとく、ある場所にはまり、位置づけがなされ、スッキリする。

 それがこれまで思っていた通りということもあれば、新たな意味に変わったり、

なにかが追加されたり削除されたりということもある

 

 個人と社会は分けがたくつながっている。

 100%自分だけのことだと思っていたものが、

じつは背景に社会があった、その影響を受けていた

など、社会と個人とは分離できない。

 

 そんなことを『平成史講義』という本を読んで

痛感した。                        

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 本を読み、胸に響いたことをいくつか(いくつになるか

わからないけど)書いてみたい。

 

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【引用】

「平成史」は存在するのか

メディアが盛んにそう語るから、「平成」がひとまとまりの時代に見えてくる…

メガネが(「平成史」という)「現実」を出現させているにすぎない。…

(だけど)そこにある人々のこだわりと、この歴史を眺めるメガネが持つ一定の

説得力から、私たちが生きる同時代の力学を中期的な視座で浮かび上がらせる

ことが可能なはずだ。

 

「ご破算」の歴史観を超えて

一方で、人びとが今日、「平成」の尺度で時代を捉えようとする根底には、

「ご破算」の思考がある。…干支のように一定の年数で循環する方法である。…

つまり「平成」とは、グローバル化とネット社会化、少子高齢化のなかで

戦後日本が作り上げてきたものが崩れ落ちていく時代であり、…

この30年で、一時は永続するかと思われていた「戦後日本的なもの」が

あっけなく崩れ、失われていったのである。

 

仮想化する自己と他者

1989年(平成元年)に破綻し始めたのは、政治体制ばかりではなかった。

私たちの現実感覚もまた、この頃から変容を遂げていく。

宮﨑勤による連続少女誘拐殺人事件であった。…かつて1960年代末の永山則夫

による連続射殺事件にははっきり刻印されていた現実感、それがどれほどみじめで

嫌悪すべきものであったとしても、自己についての確たる感覚である。

 

 

〈もうひとつの平成史

昭和天皇の)生前退位」の選択肢があったなら、諸外国の世論はそれを

当然のこととして受け入れたはずだ。またそれは、日本社会にとっても一定の

「けじめ」となったはずだった。そして「昭和」は、1921年に始まり、

1940年代後半に終わっていたことになる。

そうならなかったのは、「生前退位」を持ち出すと、天皇制そのものの廃絶に

議論が発展しかねないと危惧した日本の政治エリートたちの思惑と、

占領政策遂行のために昭和天皇の存在は大いに利用価値があると考えた

占領軍司令部の思惑が一致したからで、「昭和」の継続は政治的な駆け引きの結果

であった。…

失われた者たちへの鎮魂は、一時の行為や言葉で贖えるものではなく、

一人ひとりが長い年月をかけて戦地(被災地)に思いを寄せ続けていくこと

によってでしかないという(平成天皇)自身の言葉を、天皇になってからも

誠実に実行し続けた。その持続に深い敬意を払う人々は、政治的立場や国境を

越えて広がった。

 

(注:黒字は私がつけ加えたもの)

 

 引用のうち下線あたりはいろいろ考えさせられた。

 

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◆ 〈「ご破算」の歴史観を超えて

  〈仮想化する自己と他者

 

 あの戦争で日本が犯した残虐な歴史的事実を、

なかったことかのように扱おうとすること、

思いだしたくもないようなイヤなことは忘れさって

しまうのがいちばんというかの如く、

「ご破算」の思考というもの、を採用することで、私たちは

経済的繁栄を成しとげてきた(高度経済成長、一億総中流

 が、一方では、宮﨑勤による連続少女誘拐殺人事件のような

おぞましい事件が起きている。

 

 

「ご破算」歴史観が、朝鮮戦争の特需景気ころから、高度経済成長期に

かけて言われるようになった。

いつの間にか、日本人が残虐な行為なんかするわけない、の声も出はじめた。

日本が前進するためには、戦争のおぞましさは「なかった」ことにするか

「忘却」がいちばん。 

そういう社会のあり方と、宮﨑勤による連続少女誘拐殺人事件は無関係である

はずがない

 

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◆ もうひとつの平成史

 

失われた者たちへの鎮魂は、一時の行為や言葉で贖えるものではなく、

一人ひとりが長い年月をかけて戦地(被災地)に思いを寄せ続けていくこと

によってでしかないという(平成天皇)自身の言葉を、天皇になってからも

誠実に実行し続けた。

 

 現政権を鋭く批判する内田樹さんが、こんな天皇

なら天皇主義者」になってもいいというような

ことを述べておられたが、「象徴天皇制」でも反対の

私もなっていいと思った。

「右翼」とか「左翼」はまったく関係ない。

天皇(平成天皇のような人のみ)親政」もいいなと真面目に

思った。

 

「民主主義」というものはいったい何なのかと、安倍

「独裁」政治をみて痛くなるほど何度も首を曲げた。

 「民主主義」というものが、その国のそのときの

選挙制度にのっとって(ということは法律にとっとって)多数を

獲得した者が好き勝手にやっていいものというなら、

「民主主義」とはアリバイに過ぎない。

 歴史をひもとくなら、あの独裁者ヒトラーだって、

民主主義にもとづき、公正に国民から選ばれた。

 

 

 

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                          ちりとてちん

 

 

 

 

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