カメキチの目
(これは社会や生活の話で、身近に感じられました)
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【引用】
〈中間層の空洞化?‐格差、郊外、ナショナリズム〉
・そもそもナショナリズムは、ネーションという「想像の共同体」を構想する
想像力であり、共通性を志向する。
①それは、個人を抑圧するものになりうるが、社会の分断を縫合する機能をもつ。
〈郊外社会論と大量生産技術〉
・郊外社会とは、日本社会のモータリゼーションともいうべき、自動車の普及と
道路の整備がもたらした情景の変化のことである。
だが同時に、それは、住宅の大量生産、物の大量消費、…大量流通による社会の
変容である…
このことは、家族のかたちの変容という問題にもかかわる。…
高度成長期を支えた資本の論理は、マイホームを夢みる核家族という家族の形態
を一般化させた。その夢の強さが、「一億総中流社会」の実定性を支えていた。
・だが、資本の論理はそのような核家族すらも分解していく。
②より効率的・能率的な生活を目指すのであれば、「単身者」という生き方が
一つの選択肢として登場してくる。そのとき、「郊外」という空間、
「家族」という集合、さらには、個人の身体も、資本の論理につらぬかれ、
効率=能率の形象として見えてくる。…
・③「自己責任」…という言葉は、個々の行為の決断が個人に帰属し、その結果が
個人へと委ねられること以上に、あらゆる存在がむき出しのプレイヤーとして、
結果が数値化されるゲームの参加者とみなされることを意味している。…
実質よりも、外見として現れるものが重視される。…
それまで数値化できなかったものを数値化する技術の発達とともに登場してきた…
・このような「効率」の技術が…大量生産を可能にする技術の中核にあること…
しかも、その技術の延長線上に、情報技術と企業化が位置する。…
「制御と通信の理論」が、電子計算機とともに、人々の生と社会を貫く原理となる
〈ナショナリズムの変容と情報化〉
・④このような情報技術の進展は、大量生産技術の発展したものにほかならない。
そして、それは人々の生活や思考、行動に影響を与えている。
ナショナリズムの問題もまた、これを背景として考えなければならない。…
情報技術は、いわば、人々のリアリティの水準に深く関与している。
(注:下線は私がしたもの、黒字のところは書き加えました)
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◆ ナショナリズム
①それは、個人を抑圧するものになりうるが、社会の分断を縫合する機能をもつ。
「ナショナル」は、語源的に「ナチュラル」にも
通じる気がする。
(断っておきますが、これはあくまで都合のいい私的解釈です)
つまり、「自然」ということ。
普遍的で右とか左もない。
不安を煽られ危機を叫ばれれば、「わが身ファースト」で、自分を守るために
排外的、ときには攻撃的にまでなるのは生きものの本能として自然なことで、
少しも非難されるべきことではないと思う。
ただし、自分を守ることが自分に合わない人を寄せつけない、排除し、差別する
ことになるなら、不安を煽る誰かに気をつけなければならない。
「ファースト」元祖のトランプの「アメリカファースト」。
「どこそこファースト」があちこちに見られる現在《これほど流行るとは!》。
これほど拡大・流行ったのは、
人間は他人に「共感」できるという普遍性とは真逆の普遍性だったのに違いない。
国家が「国家」を強調するとき、
「ナショナリズム」を強い調子でいうときは
気をつけなければならないと思う。
トランプがいくら「ナショナリズム」を煽り、
アメリカを分断させようとも、それは彼に煽られた
国民が煽られていることに気づくまでの間のことで
あり、いずれ「ナチュラル」に決着がつくと思う。
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◆ 「単身者」「自己責任」
②より効率的・能率的な生活を目指すのであれば、「単身者」という生き方が
一つの選択肢として登場してくる。
③「自己責任」…という言葉は、個々の行為の決断が個人に帰属し、その結果が
個人へと委ねられること以上に、あらゆる存在がむき出しのプレイヤーとして、
結果が数値化されるゲームの参加者とみなされることを意味している。…
結婚しない人が増えているという。
これも「自己責任」か?
「より効率的・能率的な生活を目指すのであれば、「単身者」」。
(この部分を読み、こういう発想を私はしたことがなかったので、とても新鮮に
感じ、うなずかさせられました)
東北大震災で独り身は不安ということで結婚したいという人が増えたし、「婚活」
もあるくらいだから、好きで「単身」を選んでいる人が多いのではないだろうし、
自分ひとりが食ってゆくのが精いっぱいという生活上の理由からだけではなく、
《結婚して家庭をもつということは、かける苦労以上の楽しみ、幸せがあっても
「面倒なこと」も多くあり》効率・能率重視の社会が「単身者」であることを
選択するという個人の生き方にもあらわれているのではないでしょうか。
「個々の行為の決断が個人に帰属し」。
「責任」というものは、一般的には当然もたなければならない。
負わなければならない。
生きておれば、いろいろあって、ときどき選択し決断しなければならないことが
出てくる。「失敗」や「過ち」をおかし、責任をとらなければならないことだって
起きる。
そのとき、それらの責めを当の自分が負わなければならないことはどんなことか、
どんなときかは誰でもだいたいわかる。
だから、それに当の自分でない者が、他人が「自己責任」…と叫ぶときには、
気をつけなければならない。
◆ 生活を革命する情報技術
④このような情報技術の進展は、大量生産技術の発展したものにほかならない。
そして、それは人々の生活や思考、行動に影響を与えている。
ナショナリズムの問題もまた、これを背景として考えなければならない。…
情報技術は、いわば、人々のリアリティの水準に深く関与している。…
「十年一昔」というけれど、スマホが初めて登場
してからまだ10年。
この10年前後の身のまわりの変化を、
情報の世界だけでなく日常生活全般にわたっての
変化ぶりを私は驚く。
④の部分では、ここを読むまで意識することも
なかったことを意識し、ハッとした。
スマホという革命的な機器が、一般的に(ということは
「大量に」)使用されているが、それはあくまでも
商品として、ある工場で大量に生産(コピー)されて
いることである。
今さらのように「大量生産(コピー)技術」の凄さ、
凄まじさを感じた。
(大量に同じものが作られる《コピーできる》から、商品としてのスマホの
一個あたり単価を安くでき、安くできるから普及し、やがて一つの「文化」まで
創り出す。考えればスゴイことだ)
その大量に生産されるものは、
「スマホ本体と不可欠のアプリ」だけではなく、
「情報」もあり、そこにはウソ、ニセの情報(フェイク)
が真実・事実の顔をして混じる。
終わりの
情報技術は、いわば、人々のリアリティの水準に深く関与している。
が重く響いてきた。