カメキチの目
はじめに引用を。
(きょうは短いです)
【引用】
「アメリカン・ドリーム」の意味転換
(新自由主義への)この方向転換は、その後のアメリカの歴史に重大な影響を
もたらすことになる。
一言でいえば、この転換によって「アメリカン・ドリーム」の意味がすっかり
変わってしまったのである。
1960年代までにアメリカ全土に滲み渡り、全世界の人々を魅了していくことに
なった「アメリカン・ドリーム」とは、決して少数の成功者が億万長者になること
ではなく、アメリカン・ウェイ・オブ・ライフ、つまり一戸建ての郊外住宅に
住んで、自家用車にテレビ、冷蔵庫や洗濯機といった家電製品を一通り揃え、
週末にはレジャーを楽しむことができるような経済的豊かさが、
中産階級から労働者まで、国民の大多数にとって
十分に獲得可能なものとなることを意味していた。…
1980年代以降、苦境のアメリカ経済を復活させていくために、資本投資は
ますます旧来の製造業を切り捨て、
ITや金融などの利益率の高い新分野に集中していくようになった。…
この劇的な変化により、90年代以降の「アメリカン・ドリーム」とは、
もはや地道に働いてそれなりに豊かで安定した家庭を築くことではなく、
ベンチャー的なビジネスの立ち上げによって若くしても途方もない富を手にする
者たちを指すかのように思われ始めた。
(注:下線は私がしたもの、黒字のところは書き加えました)
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◆〈「アメリカン・ドリーム」の意味転換〉
さまざまな国や地域からの、アメリカへ行って
「ひとはた…」「故郷に錦を…」の夢・希望や志を
受けいれるだけの、建国当初のスピリッツ、気風が、
昔のアメリカにはあった。
(当時は米ソ冷戦時代だから、敵陣営のソ連や中国などの社主義体制を意識しての
こともあったかもしれないと思います。
ところで、いまの、メキシコ国境を命がけで超える南の貧しい人々の願いも、
「アメリカン・ドリーム」と呼んでいいのでしょうか?
テレビでその苦難の姿をみていたら、「ともかくアメリカへ行けばなんとかなる」
というほど母国での生活の苦しさに追いこまれており、そこからの逃避という面が
目につき、とても「ドリーム」というものではなさそうに見える。
しかし、たとえ「幻影」に終わっても、「夢」や「希望」なくしては、
人は生きられない存在なのだと思えてきます)
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90年代以降の「アメリカン・ドリーム」とは、もはや地道に働いてそれなりに
豊かで安定した家庭を築くことではなく、ベンチャー的なビジネスの立ち上げに
よって若くしても途方もない富を手にする者たちを指すかのように思われ始めた。
いまから思えば、「新自由主義」という言葉を聞く
ようになったころと、テレビが「ホリエモン」と
騒ぎだしたころとは、同じ時代だった気がする。
その時代と社会のトレンドにマッチしたことを
始め、「アクション」(「起業」のようなもの)を起こし、
それが当たれば大成功、大もうけ。
もう、アメリカに行かなくても
「アメリカン・ドリーム」は叶えられる。
日本はもうアメリカ並みの社会になった。
は手に入る。
(「ジャパン・ドリーム」?
いや、グローバルな時代だから、アメリカ・日本などとせせこましいことを
言ってはいけません)
テレビのドラマなどでさまざまな暮らし、生活、
世界を見聞する。
人間の生き方は「多様性」のあらわれだから
いろいろあっていいし、それぞれがすばらしい。
(悪しき「平等」ということがいわれます。
「形だけの平等」は単なる横ならび。真の「平等」ではない《言葉という形を、
いくら変えて「なになに平等」といっても実態に変化がなければ》。
人もいろいろあるのは真実。だから、才能のある人はどんどん成功し、大もうけ
すればよいと思う。
流行りの「マインド・フルネス」的なみかた《善悪などの価値観を持ちこまず、
ただ「ありのまま」の全部を肯定すること》をすればいい。「それぞれが唯一の
存在ですばらしい」と)
才能が開花し成功する。それは限りなくあっていい
けれど、やっぱり
中産階級から労働者まで、国民の大多数にとって十分に獲得可能なものとなる
という「底上げ」をいちばんに願う。
国民だれもが(桜を観れなくとも)、日々の生活や
暮らしを心配をしなくてもいい。
そうであればこそ、生活じたいが楽しめる。
身体が続かなくなるまでは生きて死ぬ。
つまり、一人ひとりが自分の個性の表れである
多様な生き方をエンジョイできるということ。