カメキチの目

2006年7月10日が運命の分かれ道、障害者に、同時に胃ガンで胃全摘出、なおかつしぶとく生きています

2020.1.31 『日本文化をよむ』 ①西行

        カメキチの目

 

 

 藤田正勝・著『日本文化をよむ 5つのキーワード

(新書)という本を読んだ。

(著者は哲学者。「文化」も「哲学」も根はいっしょだと思った。要は「人生」)

 

「5つのキーワード」とは、著者の選んだ6人から

醸し出されるもの

 いづれの人物も日本文化の底を流れる心情、

考え方に大きな影響を及ぼしている。

 6人とは、西行親鸞・長明と兼好・世阿弥芭蕉

 

 とてもおもしろかった。

(一人一記事、印象深かったことだけ抜きだして書きます

 

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① 西行

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■ 詠うことの意味を自覚

 藤田さんは述べる。

【引用】

万葉集』以来の長い詩歌の歴史のなかで、多くの歌が詠われてきた。

多くのすぐれた歌人が出たが、西行という峰の頂が高く仰ぎ見られるのは、

彼が歌を詠うことの意味を自覚した人であったからである。…

(彼は)歌とは何かを直接に問題にすることはなかった。…

どのような歌がよいか、どのようにすればよい歌を詠うことができるかは、

西行にとって大きな問題ではなかった。「何を詠うか」が

彼にとってもっとも大きな問題であった。…

(彼にとっては「方法」「手段」より「目的」なのか)

 

吉野山 梢の花を 見し日より 心は身にも 添わず成にき 山家集

(桜への)浮遊する心を、そして分離する心身に煩悶する心を西行

直視し、凝視し、それを歌にしている。西行の歌のなかには歌を詠う西行自身

いる。

 

(※黒カッコは私が加えました。以下の引用でも同じ)

 

「詠うことの意味を自覚」。

 深くうなずかせられた。

 自分はなんのために詠うのか? 

 

 ほぼ「聖人」の領域だった西行だって神仏では

ないので、自分の歌への他人の評価を気にし、多少は

自慢しようという思いがないではない気がするが、

そう思うのは私が俗世間にまみれた現代の凡人で、

そういう人生を過ごしているからだと反省した。

 

 西行にも、もちろん詠うための技術、技巧は必要

だったけれど、あくまでもそれは詠う心を表現する

手段。

【引用】

西行はそのような人びと(歌に技巧を注いだ「歌つくり」)の対極にいた。

西行の歌には不必要な装飾は感じられない。その作歌態度は、

作為性の対極にあった。

 

 詠いたい事物・事象、詠わざるをえない自分の心を

とてもだいじにした。

 だから、西行西行自身のために詠っており、

彼のつくる歌のなかには彼がいるというのである。

 

 ここまで深く自分の心、内面を見つめた西行を、

私はこの本で初めて感じた。

 

■ 西行と彼が生きた時代

【引用】 

おびただしい死に直面して

西行はそのような不条理な死に正面からまなざしを向けていた。

出家はしていたが、しかし、現実から目を背けて、隠遁の生活を送っていた

わけではない。…

西行の「花月への詠歌懸命の道」は、決して美への耽溺ではなく、

戦乱の世の悲惨とは反対の極にある美を詠うことで、

時代に向けて、血なまぐさい歴史が終わりを告げるべきことを語りかけようとする

ものであったと考えられる。

もし、すべての人が花の美しさに、あるいは月の美しさに目を向けることができる

ならば、実際に殺戮の世に終止符を打つことができるのではないか

そういう叫びであったように思われる。

 

もし、すべての人が花の美しさに、あるいは月の

美しさに目を向けることができるならば、実際に

殺戮の世に終止符を打つことができるのではないか

と、西行は思ったことだろうと私も信じるけれど、

醍醐の花見に酔った秀吉も桜の美しさに目を向けた。

 しかし、殺戮の世に終止符を打てなかった。

 

「すべての人が花の美しさに…」でないとダメか。

 

 いや私は、花や月を愛でながらも殺戮する、

殺戮できるのが人間のような気がする。

 

 

 

 

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                          ちりとてちん

 

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