カメキチの目
② 親鸞
この本には6人の人物があげられている。
ほかの5人は「日本文化」というとき、必ず
とりあげられそうだが、親鸞がなぜ?と私は訝った。
先に引用を。
【引用】
〈徹底した「悪」の自覚〉
親鸞一人がため
阿弥陀仏が五劫という無限に長いあいだ思いを尽くしたのち誓われた願は、
自分一人のためであったというのである。
それは、自分も‐あるいはむしろ、自分こそ‐むさぼりの心や愛憎に突き動かされ、
自己を恃む心に縛られているという深い自覚から語られた言葉である。
この自己を見る目の厳しさこそ、親鸞の信仰のもっとも大きな特徴の一つであると
言えるであろう。
愚禿親鸞
「愚禿」というのは、単にへりくだって自らをそう呼んだのではなく、悪の自覚と
絶望の深い闇のなかから言われた言葉として理解しなければならない。
逆説としての救い
悪の自覚から救いへ
罪業を背負い、徹底して懺悔せざるをえない自分であるにも拘わらず、
そのうえにも光はみちてきて、そのはたらきによって包まれる。
この転換を親鸞は経験したのである。
悪を徹底して自覚することが、同時に救いの次元を切り開いたのである。
そういう意味で救いとは一つの逆説であると言うことができる。
救いに値しないからこそ、また救いを自ら手にする力をもたないからこそ、
救いがさしのべられるのである。…
それは自己が自らの力で獲得した信心ではない。賜った信心である。
(※ 赤字は強調で私がしました)
上の引用文を読んでも、私はどうしてこれが
日本文化の源流の一つになるのか納得できなかった。
ただ、「日本文化…」は感じさせられなかったが、
親鸞の自分の内面を見つめる目の深さに畏れいった。
「自己を見る目の厳しさ…」「悪の自覚…」
有名な「悪人正機説」をいっているのだろう。
「悪人正機説」というものは、そう言ってしまえば
「ああ、そうか。そういうことか…」で終わるけれど
「悪を徹底して自覚することが、同時に救いの次元を
切り開いたのである」
ここに至るまでの親鸞の苦悩を想うと言葉が出ない
抱えるが、「自己を見る目の厳しさ」や「悪の自覚」
ということをどれだけ自覚しているだろう?
(そういう意味では、坐禅など修行を重んじ、自己を深く見つめようとする
禅の方が親鸞に近いような気がしてきた)
だが、「自己を見る目の厳しさ」や「悪の自覚」を
徹底して行う(突きつめる)のには限りがなく、とても
「悟り」には到達し得ない。
庶民には無理というものである。
悟りを得るための庶民一個人の努力には限界が
ある。
一個人だけでなく多くの(できればすべての衆生)人の救いに
応えるため、仏は親鸞をして他力に至らせたのか。
(「南無阿弥陀仏」と唱えるだけで救われる、死ぬときは阿弥陀如来が
迎えにきてくれるという来迎思想は、したくても修行できない、する余裕のない
大多数の一般庶民にとって、どれほどありがたいものだっただろう)