カメキチの目
③ 長明と兼好
本を読むまで、二人の遁世者の「遁世」という
世の中からの遁れ方に、こんな違いがあったとは
まったく知らなかった。
【引用】
長明と兼好の「無常」-二人の遁世者
1 遁世のさまざまな形
・無常感という通奏低音
「ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。
淀みに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたる例
(ためし)なし。…朝(あした)に死に、夕べに生まるるならひ、
ただ水の泡にぞ似たりける。…」
(長明は「数寄の遁世者」となっていく)
数寄という言葉は、もともとは色好みを意味したが、やがて風流文雅の道に
深く心を寄せることを意味するようになっていった。
2 長明の最後の境地
・中心と周辺
世俗の社会の価値体系は人の行為を縛り、規制し、その秩序のなかに人を取り込む
ことで成り立っているが、人は、周辺へと身を移すことによって、
この規制から逃れ、それまで得ることのできなかった自由を手にする。
周辺へと身を置くことは、単なる消極的な逃避ではなく、
むしろ、それまでの非本来的な生のあり方から脱却し、本来的な在り方へと
立ち戻ろうとする営みにほかならない。
・『一元芳談』(鎌倉時代後期の法語集)による遁世
多くの遁世者が「身しづかに心すむ」ということを言うが、
それは後世のことを考えたとき、大きなことではない。言うとしても、名利の心を
超脱してのことである。
それにも拘わらず、多くの人は、趣向を凝らした庵に一人住まいし、
詩歌などを口ずさむことでそれを実現できると思い、
この「心すむ」ということに執心している。
このような見当ちがいの態度に対する強い批判がここ(『一元芳談』)に
語られている。
3 兼好の無常観
・遁世者の堕落
平安末から鎌倉時代にかけて、「遁世」は一つの流行現象ともなった。
しかし他方で、その流行は、多くの堕落した形態を生みだした。…
仏道を歩むためにではなく、名を得、利を得るために出家遁世をする人々が
数多く出ることに対してあきれ果て、憤る気もちが「貪世」という言葉に
よく表現されている。
・無常観の変化
兼好は長明と異なって、決して「数寄の遁世者」ではなかった。
(長明の)管弦の道に遊ぶこともまた、執心の一つの形態として意識されていたと
考えられる。
名利を追い求めるだけでなく、風雅に遊び、時を移すこともまた、
大いなる愚行として考えられていたと言える。…
しかし、兼好はまなざしを来世のみに向けることをしなかった。
後世のみを頼み、現生を否定するということをしなかった。
むしろいまを生きる意味を見いだそうとした。
そこに兼好の生に対する向きあい方の特徴がある。
(※黒字の追加、赤字の強調はこっちでしました)
長明は「管弦の道に遊ぶ」という「数寄」に遁世の
道を見いだしたけれど、兼好は出家し静かに暮らした
違ってはいても、どっちもいいなと思った。
(がこの時代、そもそも「遁世」なんてことが可能な人はごく一部だっただろう。
生きていく、食うのが精いっぱいという人がほとんどだったのでは。
「日本文化をよむ」なんて言っておられる私は、今をありがたいと思わなければ
バチがあたりそう)
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無常(観)は、老いとともに味わいが深まる。
「人生も世界も常ならず…あてになるものごとは
何ひとつない…」という「諦め」諦念ではなく、
「明らめ」だ。
「あてになるものは、老いと死」。だからか、死も
なんというか「親しみ」のようなものが感じられる。
(「死」について、若かったころは反射的に《直接的に》避け嫌うところが
あった。
《けっして好きになったのではないが》老いた今は生と死の間に「無常」が
忍びこみ、それが生と死を取り結んでくれ、避けることがなくなった。
これに私の場合は、もう少しで死んだかも…《障害者にはなったけれど》という
個人的体験が加わっている)
いまの新型コロナウィルスも、おととい逗子市での
崖崩落事故に遭って亡くなった18歳の女子高生の
表現できないほど気の毒なニュースも、人生の無常を
深く感じさせざるを得ない。