カメキチの目
「自由」「平等」「博愛」。
フランス革命の標語のようなことをよく言うが
深く考えたことはない。
深く考えなくても、これらの反対「不自由」「不平等」「偏愛」はイヤだ!
私はこれらの言葉の「安売り」屋みたい。
言葉のイメージ、気分や感情だけが先走っている。
そうであっても、だいじなことだと信じているので
青臭くても、安くても、売り続けたい。
たまたま見つけた『不自由論』という新書本(著者は
仲正昌樹という大学教師)に強く刺激を受けた。
民主主義を標榜する日本には空気のような「自由」
というものに、深く考えさせられた。
(強く印象に残った二つのことだけ書きます。きょうは①だけ)
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①「人間は自由だ」という虚構
「人間は自由」というのは虚構(フィクション)だと
著者は言う。
学校教育を受けていたときは素直な子どもだったので、私も立派な「天賦の人権」
(自然権)主義者になった。
基本的人権という人間が生きるにあたって最もだいじな権利(「属性」)は
天(神・絶対者)が賦与したものであるから誰でも生まれついてもっている
という思想の信奉者に。
しかし、
子どもを卒業し、社会に出てからは、人生そのもの
世の中のさまざまな矛盾、不合理を肌身で感じ、
自由・平等などの人権が天賦のものではないことを
知った。
「悟った」という方がふさわしい。
まっ、どこで生まれたか、親がどういう人間だったかなど、自分に責任のない
「運命」的な、どうしようもないものが「宝くじ」みたいに誰にも「平等に」
天から下されるものと思えば、誕生の「宝くじ」的平等は天賦と言えなくはない。
いまは、
「人間は自由」は虚構だと言う著者の言葉に
私も賛同する。
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著者は本で(「多様性」の記事で触れた)アーレントという
社会の研究を紹介する。
【引用】
アーレントは、ポリスの善し悪しを言っているのではなく、ポリスが「人間」
としての「我々」の起源になっている、という歴史的問題を掘り下げて論じている
のである。
「我々」にとって善/悪の基準になっている「人間性」自体が、ポリスという
枠の中で生まれたものである以上、我々は、好きであろうと嫌いであろうと、
「ポリスの公的領域」と結びついた「人間性」の概念抜きで自己規定することは
できない。
(「ポリスの公的領域」とは、自由な市民《ソクラテスのような》が、あるべき
人間・社会について自由に思いや考えを述べる公的な広場、政治の場であるが、
自由な市民は「私的領域」である家を私的所有財産である家内奴隷に支えれていて
こそ存在、生存できているのである。
つまり、自由な市民がどんなに「人間とは…」と立派なことを述べても、奴隷制の
上に彼らの生活は成り立っているのだ)
(時代が進み)純粋に一方的に支えられている者(ポリスの「自由な市民」)も、
純粋に一方的に支えている者(家内奴隷)もいなくなり(つまり奴隷制の廃止)
全員が、自分の生活維持のための仕事・労働に従事しながら、同時にポリス全体の
善について発言するという二重生活を営むようになる。
「公/私」の境界線が曖昧になるわけである。…
→(つまり時代が進むと、ポリス社会では本来なら「家」という私的な、内部の問題
であったはずの物質的「利害」関係が、公的に《「政治経済」として》討議され、
決定されるようになった)
このことは、…利害が前面に出てきた以上、それはもはや、本来の“公的領域”とは
言えない。
→(本来の“公的領域”では、「人間性とは?」「人間の生き方とは?」「それを
叶えるために政治はこうあるべきだ」と熱いトークが演じられていた。
しかし、そういうのは「仮面」であり、それを脱いで「本音」で語ろうという)
しかし、「仮面」を脱いで「本音」で生きるのは、そんなに”すばらしい“こと
なのだろうか。…筆者は、「本音がいい」というのには限度があると思う。…
アーレントはまさにそれを問題にしている…。各人が他者と共存するために被って
いる「仮面」を剥いでいけば、直視するに耐えないものがどんどん出てくる。
われわれの“人間性”は落ちるところまで落ちていく。…
限度を知らない「本音トーク」には、我々がようやく身につけた「仮面=
ペルソナ=人格」を破壊して、無限の野蛮さを到来させてしまう危険がある。…
そうやって何とかもっともらしい「仮面」をと苦心しているうちに、それが次第に
自分の本当の顔(本音)に密着してきて、自分自身にとっても他人の目から見ても、
本音と仮面の区別がつかなくなるものである。
「本音を語ることが人間的」だ、という安易な発想は、公的な演技を通して
アイヒマン(アウシュビッツのホロコースト執行人)のように陳腐で、
自分では考えないで安易な方向に流れる“人間”を作り出すだけである。
必死になって不自然な「仮面」を被り続けようとしているからこそ、
「人」と「人」の「間」に多様性が生まれ、「人間らしい」活動が可能になる
のである。…
ポリスで人為的に構築された「人間性」の“本質”が、絶え間なき「対話」を通して
生み出される「多元性」であるとすれば、むしろ、「人間性」とは何かをめぐって
様々な立場の人間が討論し続けている状態こそが、「人間的」であるということ
になるだろう。
(※ 黒字のカッコ部分は私の追加。赤は強調)
著者の言うように、アーレントはとてもだいじな
ことを述べている。
私は二つのことが強く心に残った。
■ アテナイなどのポリス市民は、家内奴隷の労働に
支えられておればこそ自由に振る舞え「自由な市民」
としてポリスの運営、政治に直接参加でき、たとえ
それが当時のポリス社会では「口先」だけの「空論」
「画餅」に過ぎなくても、人間のあり方が真剣に
論議され、考えられた。
「人間のあり方論」は現在に至っても結論は出るばかりか、多様化している。
生きてゆくことが昔より容易、楽になった現代に
おいてさえ、自由に振る舞え「自由な市民」として
「人間はどうあるべき」か「どう生きるべきか」など
論議し考える余裕は、「自由な」生活を支えてくれる
(ポリス市民であれば家内奴隷。現代では)おカネと時間があって
こそのこと。
■ 「自由」「平等」などが「仮面」(「建て前」)
だとしても、それらを尊い価値だと信じ、追い求める
ことも人間性の発露ならそうしたいと、
アーレントは言う。
「必死になって不自然な「仮面」を被り続けようとしているからこそ、「人」と
「人」の「間」に多様性が生まれ、「人間らしい」活動が可能になる…
ポリスで人為的に構築された「人間性」の“本質”が、絶え間なき「対話」を通して
生み出される「多元性」であるとすれば、むしろ、「人間性」とは何かをめぐって
様々な立場の人間が討論し続けている状態こそが、「人間的」であるということ
になるだろう」
私もほんとうにそう思う。信じる。
残された人生、時間は少なくても。
不自然、ちょっとムリしているようでも、そうありたい自分に向かって
「仮面」を被り続けたい。
「化けの皮」は剥がれるかもしれないので、注意ぶかく!
集中力が切れて注意を怠り、仮面が剥がれ「おまえの正体見たり」とボロクソに
言われても、年寄りに免じて許してもらおう。