カメキチの目

2006年7月10日が運命の分かれ道、障害者に、同時に胃ガンで胃全摘出、なおかつしぶとく生きています

2020.2.28 『不自由論』①

         カメキチの目

 

 

「自由」「平等」「博愛」。

 フランス革命標語のようなことをよく言うが

深く考えたことはない。

深く考えなくても、これらの反対「不自由」「不平等」「偏愛」はイヤだ!

 

 私はこれらの言葉の「安売り」屋みたい。

 言葉のイメージ、気分や感情だけが先走っている。

 そうであっても、だいじなことだと信じているので

青臭くても、安くても、売り続けたい。

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 たまたま見つけた『不自由論』という新書本(著者は

仲正昌樹という大学教師)強く刺激を受けた。

 民主主義を標榜する日本には空気のような「自由」

というものに、深く考えさせられた。

 

(強く印象に残った二つのことだけ書きます。きょうは①だけ)

 

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「人間は自由だ」という虚構

 

「人間は自由」というのは虚構(フィクション)だと

著者は言う。

学校教育を受けていたときは素直な子どもだったので、私も立派な「天賦の人権」

自然権)主義者になった。

基本的人権という人間が生きるにあたって最もだいじな権利(「属性」)は

(神・絶対者)が賦与したものであるから誰でも生まれついてもっている

という思想の信奉者に。

 

 しかし、

子どもを卒業し、社会に出てからは、人生そのもの

世の中のさまざまな矛盾、不合理を肌身で感じ、

自由・平等などの人権が天賦のものではないことを

知った。

「悟った」という方がふさわしい。

まっ、どこで生まれたか、親がどういう人間だったかなど、自分に責任のない

「運命」的な、どうしようもないものが「宝くじ」みたいに誰にも「平等に」

天から下されるものと思えば、誕生の「宝くじ」的平等は天賦と言えなくはない。

 いまは、

「人間は自由」は虚構だと言う著者の言葉に

私も賛同する。

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 著者は本で(「多様性」の記事で触れた)アーレントという

著名な社会学者による古代ギリシャポリス都市国家

社会の研究を紹介する。

【引用】

アーレントは、ポリスの善し悪しを言っているのではなく、ポリスが「人間」

としての「我々」の起源になっている、という歴史的問題を掘り下げて論じている

のである。

「我々」にとって善/悪の基準になっている「人間性」自体が、ポリスという

枠の中で生まれたものである以上、我々は、好きであろうと嫌いであろうと、

「ポリスの公的領域」と結びついた「人間性」の概念抜きで自己規定することは

できない。

(「ポリスの公的領域」とは、自由な市民《ソクラテスのような》が、あるべき

人間・社会について自由に思いや考えを述べる公的な広場、政治の場であるが、

自由な市民は「私的領域」である家を私的所有財産である家内奴隷に支えれていて

こそ存在、生存できているのである。

つまり、自由な市民がどんなに「人間とは…」と立派なことを述べても、奴隷制

上に彼らの生活は成り立っているのだ)

 

(時代が進み)純粋に一方的に支えられている者(ポリスの「自由な市民」)も、

純粋に一方的に支えている者(家内奴隷)もいなくなり(つまり奴隷制の廃止)

全員が、自分の生活維持のための仕事・労働に従事しながら、同時にポリス全体の

善について発言するという二重生活を営むようになる。

「公/私」の境界線が曖昧になるわけである。… 

(つまり時代が進むと、ポリス社会では本来なら「家」という私的な、内部の問題

あったはずの物質的「利害」関係が、公的に《「政治経済」として》討議され、

決定されるようになった)

 

このことは、…利害が前面に出てきた以上、それはもはや、本来の“公的領域”とは

言えない。

→(本来の“公的領域”では、「人間性とは?」「人間の生き方とは?」「それを

叶えるために政治はこうあるべきだ」と熱いトークが演じられていた。

しかし、そういうのは「仮面」であり、それを脱いで「本音」で語ろうという)

 

しかし、「仮面」を脱いで「本音」で生きるのは、そんなに”すばらしい“こと

なのだろうか。…筆者は、「本音がいい」というのには限度があると思う。…

 

アーレントはまさにそれを問題にしている…。各人が他者と共存するために被って

いる「仮面」を剥いでいけば、直視するに耐えないものがどんどん出てくる。

われわれの“人間性”は落ちるところまで落ちていく。

限度を知らない「本音トーク」には、我々がようやく身につけた「仮面=

ペルソナ=人格」を破壊して、無限の野蛮さを到来させてしまう危険がある。…

 

そうやって何とかもっともらしい「仮面」をと苦心しているうちに、それが次第に

自分の本当の顔(本音)に密着してきて、自分自身にとっても他人の目から見ても、

本音と仮面の区別がつかなくなるものである。

「本音を語ることが人間的」だ、という安易な発想は、公的な演技を通して

生まれてくるアーレント的な意味での「人間性」を衰退させ、

アイヒマンアウシュビッツホロコースト執行人)のように陳腐で、

自分では考えないで安易な方向に流れる“人間”を作り出すだけである。

必死になって不自然な「仮面」を被り続けようとしているからこそ、

「人」と「人」の「間」に多様性が生まれ、「人間らしい」活動が可能になる

のである。… 

 

ポリスで人為的に構築された「人間性」の“本質”が、絶え間なき「対話」を通して

生み出される「多元性」であるとすれば、むしろ、人間性」とは何かをめぐって

様々な立場の人間が討論し続けている状態こそが、「人間的」であるということ

になるだろう。

 

(※ 黒字のカッコ部分は私の追加。は強調) 

 

 著者の言うように、アーレントはとてもだいじな

ことを述べている。

 私は二つのことが強く心に残った。

 

■ アテナイなどのポリス市民は、家内奴隷の労働に

支えられておればこそ自由に振る舞え「自由な市民」

としてポリスの運営、政治に直接参加でき、たとえ

それが当時のポリス社会では「口先」だけの「空論」

画餅」に過ぎなくても、人間のあり方が真剣に

論議され、考えられた

 「人間のあり方論」は現在に至っても結論は出るばかりか、多様化している。

 

 生きてゆくことが昔より容易、楽になった現代に

おいてさえ、自由に振る舞え「自由な市民」として

「人間はどうあるべき」か「どう生きるべきか」など

論議し考える余裕は、「自由な」生活を支えてくれる

(ポリス市民であれば家内奴隷。現代では)おカネと時間があって

こそのこと。

 

■ 「自由」「平等」などが「仮面」(「建て前」)

だとしても、それらを尊い価値だと信じ、追い求める

ことも人間性の発露ならそうしたいと、

アーレントは言う。

必死になって不自然な「仮面」を被り続けようとしているからこそ、「人」と

「人」の「間」に多様性が生まれ、「人間らしい」活動が可能になる… 

 

ポリスで人為的に構築された「人間性」の“本質”が、絶え間なき「対話」を通して

生み出される「多元性」であるとすれば、むしろ、人間性」とは何かをめぐって

様々な立場の人間が討論し続けている状態こそが、「人間的」であるということ

になるだろう

 

 私もほんとうにそう思う。信じる。

 残された人生、時間は少なくても。

 

不自然、ちょっとムリしているようでも、そうありたい自分に向かって

「仮面」を被り続けたい。

「化けの皮」は剥がれるかもしれないので、注意ぶかく!

 

集中力が切れて注意を怠り、仮面が剥がれ「おまえの正体見たり」とボロクソに

言われても、年寄りに免じて許してもらおう。

 

 

 

 

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                          ちりとてちん

 

 

 

 

 

 

 

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