カメキチの目

2006年7月10日が運命の分かれ道、障害者に、同時に胃ガンで胃全摘出、なおかつしぶとく生きています

2020.3.3 『不自由論』②

          カメキチの目 

 

 

 ②「気短な人間」はやめよう

 

「気が短い」ことと「自由」にどういう関係があるのだろう?と思ったが、

読み終えて納得しました。

 

著者が本で問題にしているのは、権利としての「自由」だけでなく、感じや気分

としての「自由」もあります。

 

感じや気分としての「自由」は、客観的なそういう状態から生まれるけれど、

客観的には不自由な状態であっても「心は自由だ」とも言え、なかなか複雑です。

それにきょうの記事「気短な人間は…」には、後半(引用文から)で述べますが、

「主体性」や「自己決定」「自己責任」が絡んできます。

 

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「気短な人間」…の前に、

偶然この本と前後して読んだ別な本に宮台真司という人の「不自由」について

書かれていたのがおもしろかったので紹介し、思ったことなどを少し書きます。

 

それによれば

【引用】

社会学者は不自由には三種類あると考えます。

第一は端的な選択肢の不在

昔の人はテレビを知らないという意味で今より不自由ですが、

当事者はそんな選択肢を考えたこともないから、主観的な不自由感はない。

第二は選択肢の制約

お金さえあれば臓器移植ができて子供が助かるのに、という反実仮想をする人は、

選択肢は意識されているのに選ぶことが外的に制約されるという意味で、

不自由な状況にいます。

このとき当事者は主観的な不自由感を抱かざるを得ません。

第三は選択肢の過剰

 

この区分けによると、 

現代の日本は、第三は選択肢の過剰状態も

(人によっては)よくある。

例えばインターネット情報。望むものがすぐ手にでき、その量は迷うほど多様多彩

(「玉石混交」で、選ぶ手間ヒマはいるけれど)

例えばグルメ。贅を極めつくした食べ物が食べられる(おカネさえあればという

条件付きではあるけれど)。

私たちの住んでいる資本主義社会ではグルメに限らず、おカネ(貨幣を発行する

権限のある国家が戦争で負けたり、経済の大恐慌などで貨幣じたいの「信用」が

失われない限り)があれば何でもかなうので、それは「自由の女神」みたい。

 選択肢がたくさんあることは「自由」が多くあって

いいことだが、選択にはそれなりの責任がともなう。

 

                     

 選ぶ手間を(私のように)「面倒くさいなぁ」と感じ、

それなりに生まれた責任が負担になるなら、逆に

「不自由」感を持つ

近くのスーパーの特売日菓子パン2、3個買う。

そのときワゴンに並べられたパンの種類の豊富さ(でもネット情報には負ける)

に驚く。1個100円前後でもどれを買おうかと迷う。

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 菓子パン選びのような「お気楽」はかまわないけれど、そうではないとき、

選択肢が豊富とはいっても、それを選択したくても

おカネがない、足りないなど理由で諦めざるを

得なく(上記引用の第二は選択肢の制約」)不自由感は募る。

 

「過剰」とも言えるほどの選択肢は果たして望ましいことなんだろうか?

(その前に、何をもって「過剰」というのかを論議しなければならない

と思いますが)

いまの私は(身体のバランスがとれない状態も影響していると思いますが)

「ほどほど・まあまあ」「適当・適切」「多いでもなく少ないでもない」…

というのが望ましい気がする

 

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「気短な人間」…に戻って

 

「生きる」ということはある意味で(軽重の違いはあれど)

さまざまな選択・決断の絶え間なき連続といえる。

 選択を迫られた現実は、待ってはくれない。

「早く決めろ!」と誰かに急かされなくても、暗黙の裡に自分で早く(速く)
しなければならないと思ってしまう。

 

 私たちは、膨大な量の情報(選択肢)に迷いながらも

ともかく自分が信ずるものを、自分にはこれが最適

思えるものを手際よく選択しなければならない。

 そして選んだモノ・コトには責任が発生する。

                

 著者は「自由」との関連で、自分は「主体的に

自由な存在」として選択しているか?

ということを問題にする。 

 よくいわれる「自己決定」と「自己責任」。

 そして「効率」。

 

【引用】 

自己決定論と効率性

 

「責任」のほとんどを負わせてしまうことができる「自己責任」…

自分がどういう「状況」に置かれているのか分からなければ、

何を自己決定していいのか自体が、分からないのである。

 

気短な「主体性

人間は様々な状況の中で、外から与えられる刺激にたいして

それなりに反応しているわけだが、刺激と反応の時間的間隔が短かければ

主体的に「決断」しているように見え、長ければ主体性がなくてぐずぐずしている

ように見えるわけである。

その意味で、「主体性」とは「気短さ」に対して後から取って付けられた

名称である、ということになる。

近代的な「主体性」は、…気短に短縮された関係性の中で、姿を現してくる。

こうした「主体」は、建前上は、他者の影響から“自由に”自己決定する能力がある

ことになっている。しかし、その背景を考えれば、むしろ、

「他者との関係性についていちいち考えないで、さっさと“自己決定”するよう」

強制されていると言える。

 

(資本主義)市場における効率性の原理に従って、「主体」であることを

強いられているのである。我々は、「自由な主体」で有らねばならない、

という極めて“不自由”な状態に置かれているのである。…

資本主義生産体制と連動している近代的「主体」は、「気短」である。

今、現代思想に求められているのは、「自由な自己決定」あるいは

非主体的な主体性」への強制からの“自由”について、

じっくりと考えることではないだろうか。

 

「自己」の状況限定

問題なのは、あたかも、共同体的な文脈抜きの「自己決定それ自体」があり得る

かのような言説が一人歩きするなかで、どういう「状況」なのかという規定抜きに

自己決定”がなされるようになることだ。

つまり、何に対する「自己決定」なのかよく分からないままに、

“とにかく自己決定”という圧力が働いていることである。

 

(()は私が追加、下線・赤字は強調です) 

 

 自分である物事を選択し決める前に、いろいろな

ことを調べ、考える。

 調べものが、つまり情報などが多くなると、自分で

調べ考えるのが面倒くさい」となりやすい。

「負担」にまで感じられるようになると、当の物事に

よっては他(誰か)に任してもいいと思うようになる。

「自己決定」の他人への丸投げである。

 

「他人への丸投げ」しても、私たちは自由な主体

とされているので、自由な自己決定した

とされ、自己責任が問われることになる。

これは基本的人権の話であるが、先人たちの汗と血と涙で手に入れ、今では

当然の権利(権利という意識さえあまり感じることがなくなった)である選挙権を

選挙に行かないことで放棄するのは、政治の場における「自己決定」の他人への

丸投げである。

 

「自己責任」との関連で、「自分が決めたことだから」とよく責任を問われる。

その場合、責任追及の側は、「自由な存在」としてのあなたが主体的に決めたこと

というけれど、ほんとうにそうなのだろうか?

 

コトはそれほど単純ではない。

「自由」なのは見せかけだけで、選んだとはいっても、大きな目(メタ)で見れば

目には見えない他者に選ばさせられたのかもしれない。

「他者」にはレベルに応じていろいろあろうが、究極は私たちが生きている

(目には見えない)資本主義という社会システムではなかろうか

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「気短な人間」はやめよう! 

 

【引用】

刺激と反応の時間的間隔が短かければ主体的に「決断」しているように見え、

長ければ主体性がなくてぐずぐずしているように見えるわけである。

その意味で、「主体性」とは「気短さ」に対して後から取って付けられた

名称である、ということになる

 

 グズでいいではないか 。

「迅速感をもって…」はたいせつであっても、

別に急がなくてもいいことはいっぱいある

のではないか。

 

 グズと言われようが、

他者との関係性についていちいち考えないで、さっさと“自己決定

 する、できる人間にはなりたくない。

 

 

 

 

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                             ちりとてちん

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