カメキチの目
感想を六つ。
(とくに若松英輔さんの言葉に感じることが多かった)
【引用】
人間中心ではなく、見えないものへの多層的視座をもつこと
日ごろ私たちは世界の「表層」を生きています。
表層とは人間を中心に据えた側面という意味です。
人は表層では無神論者たり得ていても、深層意識においては無神論者たり得ない
のかもしれません。…
現代は何かを成し遂げた人を評価し、困難の中にある人からは遠ざかる。
しかしそれでは、困難を抱えた人だけに宿っている叡智が感じられなくなる。
こんなに多くの苦労を背負った。だからこそ幸せを感じる。宗教はこうした世界が
あることを教えてくれます。
また、このような宗教的世界観は、私たちを、人間が中心たり得ない場所へと
導いてくれます。…畏怖という感情…
祈るとは、人間を超えたものに何かを頼むことに終わるものではありません。
彼方からの声を聞くことです。沈黙の中に無音の声を感じとること…
(注:赤字の強調はこっちでしたものです)。
若松さんは、別なところで次のようなことも
述べられていた。
【引用】
「どう生かされているのか」は(「どう生きるのか」と)同じではない
近代の人間は、「どう生きるのか」一生懸命考えています。…
感性的世界と霊性的世界
霊性というのは、宗派を超えて人間の中に内在する、超越を求める衝動です。…
彼方からの声を聞くことです。沈黙の中に無音の声を感じとること。…
宗教における沈黙、それは「祈り」にほかなりません。祈りと願いは違います。
願いは人間が自らの声を神仏に届けようとすること、祈りは、神仏の声ならぬ
「声」を受け止めることです。…
「彼方での対話」(→「沈黙」)…
沈黙の働きと、宗教の問題は不可分です。言語を超えていく、理性を超えていく
のが宗教的世界観ですから、われわれが沈黙とどういう関係を切り結ぶのかは、
宗教を考える際に根源的で本質的な問題であると思います。
( 注:赤字の強調、()の黒字はこっちでしたものです)
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①「人は表層では無神論者たり得ていても、
深層意識においては無神論者たり得ない
のかもしれません」
「私は神、仏など信じていない」と人の中にいるとき
集団の中では言えても、
ひとりになったとき、孤独だと思っているとき、
愛してやまない人が消えたときも、
そう言っておられるのだろうか。
そういう人がいるとは思うけれど、その人が
「強い」とも、自分がそうなりたいとも思わない。
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②「「どう生かされているのか」は(「どう生きるのか」と)同じではない」
とても重い言葉だと思った。
私は考えたこともなかった。
「どう生きるのか」ではなく、
「どう生かされているのか」
自分の力ではどうしようもないところに、自分の力ではどうしようもないしかた
でしか「誕生」できず、
生れてから生きるなかで、努力だけではどうしようもないことがいっぱいある。
「無限の可能性」というけれど、すべてが運(ウン)と言うことができるし、
言ってしまえばそれまで。
科学技術の力によって、気の遠くなるような未来に、人間が神仏(自然超越者)に
なれば別だけど、
「生かされている」という感覚がある限り、感謝ができるうちは、
人間は大丈夫!
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③「彼方からの声を聞くことです。
沈黙の中に無音の声を感じとること」
「宗教における沈黙、それは「祈り」に
ほかなりません。祈りと願いは違います」
「言語を超えていく、理性を超えていくのが
宗教的世界観ですから、われわれが沈黙と
どういう関係を切り結ぶのかは、宗教を考える際に
根源的で本質的な問題であると思います」
「祈り」という宗教の根本をなす行為。
それは自分ひとりが神、仏に対すということ、
個人によってなされるという原点的な事実を、
今いちど心に強く感じた。
もちろん、それはみんなで祈ることと矛盾しない。
集団で祈っても、祈るという行為は一人ひとりが行っている。
それに、祈る場としての寺や教会には僧や牧師の導きがあり、信仰しやすい。
それに、みんなの祈りが感じられるのじゃなかろうか。
ただ、彼方からの声を聞くためには、自分ひとりの
沈黙=「祈り」を持たなくてはならない。
また、その「祈り」は「願い」であってはならない
と若松さんは言う。
深くうなずいた。
いままでは私は「祈り」と「願い」を区別して思い、考えたことはなかった。
言われてみれば、たしかに二つは違う気がする。
が、合掌しているときの心の現実は、混じり合っているようで、分け方が
よくわからない(たぶん私の信仰は真剣さ、深さが足りないのだろう)。
ともかく「沈黙」のだいじさが強く伝わってきた。
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④ 宗教は人間を超えた絶対者(ふつうは神仏)を
「信仰」すること。
しかし…。
ある特定の宗教を選べば(つまりその宗教の信者となれば)
絶対者は「神仏」なのだが、
いまの世の中では人の心だけに住む神仏より、
目の前にあるおカネなど「物神」に惹かれる。
近年の目覚ましい科学・技術の力で、それまでは
神仏に祈ることでしか「解決」されなかった多くの
「不思議」がわかり、解決されつつある。
「心の不思議」さえ、フロイトの精神分析の対象から、「物」としての脳の機能の
一つに還元されてきた感がある。
神仏にかわる絶対者には事欠かない。
もはや、宗教は廃れるほかないのだろうか?
【引用】
お金という神さま
これはつまり、みな実は拝金教という宗教を信じている、ということになります。
出世教、学歴教…、周囲は「宗教的なもの」ばかり…
例えばお金のために殺人を犯し、その結果人生を破滅させることもあることを
考えるなら、お金にだって何か超越性がある、ということもできるわけです。
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⑤ マインドフルネス
碧海寿広さんがわかりやすく述べておられるので引用文だけを。
【引用】
「マインドフルネス」の世界的流行
瞑想をなぜ行う必要があるのか。その意義がこれまでのように宗教的に説かれる
のではなく、科学的に説明されており、これが「科学信仰」の強い現代人には
とても説得的なわけです。
禅・瞑想の軍事利用
マインドフルネスというのは、もともと仏教の瞑想をアレンジするかたちで
設計されています。それが、仏教の本来的な目的から外れたところで、
手段としてのみ、テクニックしてのみ使われてしまっている。
しかも、目的としては企業につとめる個人の成功や、会社の業績アップといった、
現代の資本主義的なものにのみ奉仕するかたちとなっている。…
企業を中心としたマインドフルネス・ブームにおいては、こうした仏教の本来的な
目的とは、おおよそ逆行するような事態が進んでしまっているのではないか。…
仏様の名前を唱え、その姿を心に念じる念仏という行為も、
もともとは瞑想の一種です。
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⑥ AI時代の宗教
④と関連してくるが、ますます神仏に祈るという宗教
から私たちは遠くなっていくのだろうか。
若松さんだったか碧海さんが述べておられるように、
【引用】
黙って、その人の気持ちを写し取ることは、宗教的に最も大事な次元だと思います
苦しんでいる人に解を与えることではなく、共に苦しむ。…
共に苦しむことが、宗教的な最も根源的な地盤にあり、
君の苦しみはこういうことだ、君はこういうふうに生きていったらいいと
解を与えるところに、宗教的な本質があるわけではありません。…
AI時代が、すべての人々の苦しみや悩み(レベルは
さまざま)をなくすことはありえない(あれば、人間が「神仏」に
なったとき)。
「共に苦しむことが、宗教的な最も根源的な地盤に
あり」
「共に苦しむ」のは、ほんとうにむずかしい。
私は「共に苦しんだ」とは、死んでも言えそうには
ない。
だけど、言えるようになりたい。
最後にまたまた引用
【引用】
(読み書きはひとりでしかできないということ)
祈りも同様です。…(祈るとき、その人は個)その人の個の心が超越につながるのが
祈りです。
ところが、本当の意味で「ひとり」になることを、インターネット社会は大きく
阻害しているのではないでしょうか。…
今、われわれに難しくなっているのは、本当の意味での孤独な時間を持つことです
孤独な時間は、宗教にとっては、なくてはならない時間です。