カメキチの目

2006年7月10日が運命の分かれ道、障害者に、同時に胃ガンで胃全摘出、なおかつしぶとく生きています

2020.5.8 仏像‐祈りと美  

          カメキチの目

 

 

『仏像と日本人-宗教と美の近現代』 碧海寿広

という新書本を読んだ(仏像の解説書ではありません)。

硬そうな題名ですが、内容はまったくそんなことなかったです。  

 

 仏像は、われわれ日本人には飛鳥・奈良時代からの

長い歴史をとおして親しい存在だった。

実際はどうだったのだろう(大和朝廷蘇我氏や藤原一族などの独占物だった?)

 

昭和の私に仏といえば、子どものとき毎朝夕、仏壇に向かい「ナムアミダブツ…」

と唱える明治の祖母を思いだす。

仏は仏壇で掛物に描かれた絵だったので、立体的な彫像としての意識はなかった

(意識したのは修学旅行で奈良・京都の古寺で初めて観たとき)けれど、

いつもそばにあり、親しい存在だった。

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 仏像は、それまでは信仰の対象物でしかなかったが

近代(明治)に入ってからは美の対象物にもなった。

 拝み祈るものから、眺め楽しむものにもなった、

彫刻や絵画として鑑賞されることにもなったことを、

著者はさまざまな事実を挙げて明かす。 

 

■本は、明治のはじめあらゆる面で近代化・西洋化

(科学技術化)をはかろうとした日本の、「宗教と美」

関わる文化面の学術調査で、国が派遣したフェノロサ

岡倉天心たちが、(私は知りませんでしたが有名なエピソードらしい)

法隆寺夢殿の救世観音を(救世観音は「秘仏」で開帳すると雷鳴が

とどろき禍が起こるとの寺の言い伝えがあった)僧侶が恐れるのを

聞かずして開け、調査・研究したところから仏像を

美術の対象として(鑑賞の対象として)位置づける態度が

始まったという意味のことを述べる。

確かに信仰の対象物として「拝む」「祈る」だけなら姿かたちを隠された秘仏

あっていいわけです(巨石や巨木などに神が宿るという自然崇拝。アニミズム)。

    

■本は、仏像とそれに関わる古寺の建物や宝物を巡る

いわゆる「古寺巡礼」(現代では神社をふくめてパワースポット巡り

などの観光・旅となっており、信仰と美術で明確に区別できるわけではない)

を専門的に、同時に読者の多くが「あっ、アレか!

と思いあたる節があるようなエピソードを交えながら

わかりやすく叙述される。

あとがきにおいて、著者自らが謙遜しながらもちょっと自慢されたように、

さまざまな観点から仏像を探求した(そういう意味では「学際的」)、ありそうで

これまでなかったような読み物です。

二つだけ、書きます。

 

ーーーーーーーーーー

① 私は仏像を「美」と「信仰」に分けて考えたこと

なかった。

 

「きょうは美しさを集中して感じるぞー」「きょうは敬虔な気もちになって祈りに

徹しよう!」とか強く意識しない限り、ふつうは「美」も「信仰」も一体だと思う

それに、ひと言で「仏像」といっても位があり、それに応じて美もさまざまある。

 

いちばん上は「如来」でお釈迦さまや阿弥陀さまたち。

悟りきってちょっとすました感じがする。

その美しさは、「威厳美」というものであろうか(美しさも「畏れおおい」)。

次は、まだ悟っていない「菩薩」で観音さんやお地蔵さんたち。

包みこむようなやさしさの「柔和な美」であり、親しみを感じさせる。

(お不動さんや金剛力士にはまた違った美《たとえば「躍動美」》がありそうです)

 

ともかく、どの仏像にもその個性的な姿・かたちに「美しさ」を感じる。

同時に真面目な気もちになって拝み、祈る。

美しいから祈りたく拝みたくなるのか?

祈り拝みたくなるほど美しいと感じるのか?

 

② 本の最後に、観光でいいから(いや、観光だからこそ楽しむ

《単純に「笑顔になる」ことではない》のがいちばん)気楽に観光客に

なって観光地を訪れようと述べられる。

 

前の拙ブログ記事「ゆるく考える」で、東浩紀さんの「観光論」を紹介したけれど

碧海さんも紹介しています。 

 

【引用】

訪問先の文化に関する新たな理解や、現地で知り合った人びととの予期せぬ

つながりを創造しうる…

そうした無責任さゆえの創造性は、近代の政治哲学が理想としてきた、

自己が属する家族や社会や国家への責任感を重んじる人間像を乗り越えて、

人類の新しい連帯のかたちを導くのではないか、と。…

 

観光客が個々の寺院に伝わる信仰に対して無関心だからこそ、

彼らはそれぞれの寺院が属する宗派にこだわらず、

さまざまな寺院を巡ることができる。

それは、宗派を問わず数多くの寺院に金銭が落ちる可能性を高め、

また、宗派を超えて複数の宗教文化に触れる機会を、人びとに与える。

観光客は、特定の信仰には無関心に、ただ消費と娯楽を求めて宗教施設を訪問する

だからこそ、むしろ、その施設の維持に貢献し、

そこで多様な宗教文化を学ぶ機会を得て、それらの文化の継承に、

はからずも寄与するのだ。

 

京都や奈良などの古寺に向かう観光客の目的は、文化財であり、古美術であり、

仏像である。その歴史の厚みやモノの美しさに接するのが楽しいからこそ、

観光客は特定の信仰にしばられずに寺院を巡る。

宗教は、一般的に信者を排他的に囲い込む傾向を持っているが、

文化財や美術品として評価された仏像は、

その仏像を信仰する者たちがつくる集団の垣根を越えて、信者と非信者=観光客を

同じ寺院の空間に共存させる。

 

こうして、信仰を持たずに寺院を訪れ、信仰を持つ者と場を共有する観光客にも、

何らかの宗教性は芽生えうるのだろうか。

たとえば、仏像に向かい手をあわせ祈りを捧げる人を目にして、

その敬虔な態度に胸を打たれる観光客もいるだろう。

たとえば、寺院の僧侶の話を耳にして、仏教の教義に関心を持つ観光客もいる…

 

(注:赤字はこっちでしました)

 

 いまではテレビだけでなくインターネットなどでも

日本はもとより世界各地の観光地(だけでなく)気軽に

アクセスできる。

 仏像だって、遠いシルクロードの「莫高窟」内部も

見られ(どこの本物を訪ねても、人ごみに囲まれたり、うす暗がったり、

しかもほとんどは背中までは見えず、細かいところを含む全体像は観察できない)

美の鑑賞だけなら、テレビ画像などが優れている場合

がある。

いまでは4Kや8Kといった画像も出てきた。

 

 しかし、「百聞は一見に如かず」という。

 実際に自分の身体まるごとを現地に運ぶという旅、

実際の観光をしてみなければわからない。

  

旅・観光というのは、往き来の道を含めて、現地の空気を吸い、

思わぬ体験をするなど、自分の肌で触れるまでわかりません。

自分の経験・体験だからこそ「思ったよりつまらなかった」と思っても、

「思い出」となって、懐かしめる。

 

〈オマケ〉

記事のはじめのほうで、法隆寺の救世観音が「秘仏」だったことを書きましたが、

私は本尊などを「秘仏」にしている寺を「ごたいそうな…」「もったいぶって…」

などと皮肉っぽくみていたことを反省した(秘仏の寺のご住職、関係者のみなさん

ゴメンなさい)。

 

 

 

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                             ちりとてちん

                              

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