カメキチの目
若いときからずっと気になったままだったが、
読もうとはしなかった本がある。
水俣病を描いた作品なので重く感じられ、40年以上
延ばしのばしにしてきた。
手元に置いておきたい本は買う(これはそういう本)。
本そのものも分厚く重かった。『神々の村』『天の魚』という姉妹編の他の二部も
含めたもので、750ページもあった。
(コロナ禍で図書館の本が借りられなかったので、絶好のチャンスとばかり読んだ。
コロナがなかったらいつ読めたか《読まずに死んだ?》わからない)
イタイイタイ病など、いわゆる「公害」が社会問題
として大きく世のなかの注目を浴びていた。
「高度経済成長」はずいぶん昔のこととなったが、そのおかげで現在の繁栄がある
のは間違いない(戦争での多大な人々の犠牲のうえにいまの平和があるように)。
自分の場合、たまたま公害に遭わなかっただけ。
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あまりにも中身が濃く、感じたことはいっぱいあります。
記事は、作家池澤夏樹さんのすばらしい解説(本は世界文学全集の一つとして
池澤さんの編集によって出版されたもの)の引用と、それへの私の感想です。
四つあり、それぞれ引用文の前に①~④で示しました。
注:グーグル画像さんからお借りしました。
【引用】
① もともと水俣の漁師たちにとって、海は領有されるものではなかった。
今のように強い船の力に任せて他国の沿岸近くまで押し込んで
魚を根こそぎ獲る時代ではなかった。
不知火海のあの優しい、羊水のような海に舟を浮かべて湧いて出る魚を獲る。
「天のくれらすもんを、ただで、わが要ると思うしことって」暮らす。…
農業が土地を畑として私有するところから始まるのに対して、
漁業は狩猟における山と同じく海を公有のものと見なすことを前提としている。
そして、公有のものを汚すというのは人間の歴史の最初の頃に根を持つ根源的な罪
である。…
② ぼくは加害者の数を増すことによって責任を拡散しようとしているのではない
そういうすり替えで責任が拡散されるという論法を否定したいのだ。
なぜ「公害」なのだろう?
私企業の営利事業で私人としての患者が発生する。どちらも私的なことであり、
範囲が広いという以外なんら公的な性格を持たない現象ではないか。
それを公的なものにしてしまった国の不介入ないし黙認ではなかったか。…
日本に社会的不正は多く、たった今の沖縄を見ればわかるとおり大規模な受苦は
珍しくないのに、なぜひとり水俣がこれほどの文学を生み得たか。
不幸を書くには人は幸福を知らなければならない。
そうでないと何が失われたかがわからない。
石牟礼道子は水俣に住む人々の幸福を知っていた。充分に知っていた。
それが無残に失われたという事実が彼女を背後から押した。
自ら患者の声の聞き手になり、居るべき場に必ず立ち会う証人・目撃者になり、
東京丸の内までも共に行く患者の「つきそい」を務め、
その見聞のすべてを自分の魂の内に引き込み、玄妙な変成作用を得た成果を
書き記した。…
近代の側が用意した数字直結の論理と漁民たちの古代的な心情をつなぐ回路はない
会社と患者の間を繋ぐ回路が二本あって、一方は県や国や司法やマスコミであり、
もう一方は石牟礼道子だった。
彼女には会社の論理がかろうじて理解できる。理解できるから憤る。
それは患者にはとても説明しようのないものだから。
しかし患者の心情は普通の日本人には理解できるのではないか。
自分の文章を読む普通の人々には理解できるはずではないか。
日本人の心の中に古代的なる心性がまだあって、そこに訴えることは会社・社会を
動かしはしなくても少なくとも患者に対する侮蔑を和らげ、真実の一片なりとも
伝えることに繋がりはしないか。そこに希望はないか。
これが『苦海浄土』執筆の根本の動機である。
④ 彼女が患者の苦しみを長くしつこく書き続け、会社・社会が欺瞞の言葉を
連ねるうちに、不思議なことが起こった。
患者の方が次第に会社・社会を己が内に取り込み始めたのだ。
これは驚くべきことである。
「チッソの病を替わって病んでやっているので、患者たちはそんな風に言った。当の相手を前にして、患者たちは、本能的な羞かしさを感じていた。無恥なるものに対して。-お前たちが病まんけん、俺たちが病むとぞ」
なんという論法だろう。この場合、チッソはそのまま日本だ。…
水俣でまず病気で身体の自由を奪われ、生計の途である海を奪われ、
このチッソ城下町の市民たちからつまはじきにされ、差別され、補償金で妬まれ、
身の置きどころがなくなったあげくの、
「いくら考えてもゆくところはなか。
いまから先はもう、チッソ本社にお世話になりにゆこ。もうあそこしかなか。
自分ひとりじゃなか、家族もぜんぶ」
という選択はあるいは仏教にいう縁の究極の表現かもしれない。
弘法大師が誘ってくれる道かもしれない。
双六だとすれば、この上がりの場面は明らかにコメディーである。
会社の側が厚生官僚や警察や裁判所を城壁ともし濠ともして防いでいた本丸に
患者が入ってしまった。しかも攻め込んだ側には攻めたつもりもなく、
むしろ保護を求めてきたと言う。
彼らは社員やら重役やらという見慣れない相手を、
ちょうど海の生き物を見るような目で観察する。驚くべき共感能力。
(注:赤字はこっちでしました)
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①「自然」とは本来そういうものだろう。
土地は目に見えるから、よくわかる。
はじめは「共有」(「公有」)皆のものだったのに、
ある人間に独り占めしたいという欲望が生まれ
(「欲望」が生まれには生まれるだけの理由が客観的にあってのこと)、
それが人間だけがもつ言葉によって「所有」という
概念にまで高められ正当化され、現在に至っている
けれど、海や空などは見えないからわからない。
個人には分けられない。いまも、みんなの空や海。
大地も元はみんなのものだったのに…
海や空は見えなくとも(人間は国家というバーチャルをつくり)そこでは分ける。
そして今は海や空どころか、宇宙まで手を出そうとしている(「宇宙軍」の創設)
🐡 「天のくれらすもんを、ただで、
わが要ると思うしことって」暮らす。
② 池澤さんは「なぜ『公害』なのだろう?」と
問う。
私はこういう問いの仕方をしたことがなかった。
書かれていることに、何度も深くうなずいた。
「会社と患者の間を繋ぐ回路が二本あって、
一方は県や国や司法やマスコミであり、
もう一方は石牟礼道子だった」
公害に限らずどんな社会問題でも、原点は個人の
呻き、苦しみ、悲しみから始まる。
当事者個人の痛みをなるべく多くの他人が
感じられるよう伝える(両者をつなぐ、結ぶ、媒介する)他人の
存在が欠かせない。
石牟礼さんが、たまたま当時の水俣市民だったこと
また、患者さんの苦しみをともに苦しみ、水俣病の
悲惨を伝える能力を備えた人であったことは
「天のはからい」ではないかととても強く感じた。
④「チッソの病を替わって病んでやっているので、
患者たちはそんな風に言った。当の相手を前にして、
患者たちは、本能的な羞かしさを感じていた。
無恥なるものに対して。
-お前たちが病まんけん、俺たちが病むとぞ」
筆舌に尽くしがたい痛みがあっても、かろうじて動ける患者さんたちがチッソの
東京本社に直接交渉に行ったときの話だ。
「-お前たちが病まんけん、俺たちが病むとぞ」
私は絶句した。何と重い言葉だろう!
会社(その上の業界、行き着く先の国家)の利益のためには少々の個人の犠牲は
やむをえない、その極悪非道は水俣病などの公害を「個人が病む」「個人の病気」
という目に見える形で現れた。
(「戦争」で死んだ人々が言う。「国家が死なんけん、俺たちが死ぬとぞ」)
(引用のなかでは触れられていないのですが、本では次の事実も
たびたび述べられていました。 ↓
「水俣病闘争」という運動のなかでは、患者さん・支援するさまざまな人・団体を
一致団結させないための会社や行政の行う「懐柔」「手なずけ」(分裂させて
支配する権力者の常套手段。トランプとまったくいっしょ→「分断」)だけでなく
味方であるはずの支援団体の大きな一つ、左翼の政党が労働運動などのように公害
反対運動も自分の傘下におこうとして「オルグ」などさまざまな画策があった。
それは自らの勢力拡大のために公害反対運動を利用しようという、当事者である
患者さん抜きの傲慢な態度・姿勢。
当事者としての患者さんが中心の運動、闘いでなかったら、こんな言葉は生まれて
こなかった)
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読み終えて、
ように共鳴しあっている、(というか、)彼女の全身が
患者さんに成りかわっている感じがした。
(よく言う「憑依」に近い)
前に「ナホバへの旅 たましいの風景」を書いた。
石牟礼さんは日本人。
ネイティブアメリカンではない。ましてや「長」であろうはずがない。
しかし、ナホバ族の長と同じく(人間をも含む)自然が
石牟礼さんにとっては、自然とは不知火の海とそれを取り囲む山々…。
憑依したかのように思われた。