「折々のことば」(朝日新聞)は、臨床という医学が
身近なところで(広い意味で)役立っているように、
哲学もそうあらねばとの願いをこめ、
「臨床哲学」を提唱される鷲田清一さんの
短い連載コラムだ。
ジャンルを問わずいろんなところで発見した(鷲田さんの)心にピンと響いた
寸鉄のような言葉が紹介される。
先日、どうしても紹介したいというのがあった。
【引用】
親になるとは、許されることを学ぶことなのだ。 (三砂〈みさご〉ちづる)
(鷲田さんの言葉)
親はよくまちがう。
よかれと思ってしたことが子どもを傷つけた、痛めつけていたと悔やむことが
本当によくある。
だから欠点だらけの「私」を許してほしいと祈るような思いでいると、
保健学者(三砂ちづる)は言う。
子どもから許しを得ることで、自分の親も「まちがいだらけで欠点だらけの
ただの男と女だった」と許せるようになると。
(三砂ちづるさんの)『自分と他人の許し方、あるいは愛し方』から。
(注:( )の黒字、太字はこっちでしました)
「親になるとは、許されることを学ぶことなのだ」
強く実感!
子どもに「よかれと思ってしたことが…」届かず「失敗」に終わる。
失敗に終わってもめげず、繰り返す、それが子育てというものなのだろう。
私たちはこの子の親だから。自分たち以外にこの子の実親にはなれないから。
そして、ふり返り
「自分の親も「まちがいだらけで欠点だらけの
ただの男と女だった」と許せるようになると」
そしてそして、
このことは親子に限らず夫婦についてもいえると思った。
「よかれと思ってしたことが…」ケンカの種になったことは夫婦になって
数えきれない。
「夫になるとは、許されることを学ぶことなのだ」
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「家族」を思うとき、ある本にあった鶴見俊輔さんの言葉がとても印象的だった。
(こういう家族のみかたを知って驚いた)関連して引用します。
【引用】『いま家族とは』より
この場合家族というのは、夫婦としても、驚くべき仲のいい夫婦なんですが、
それでもお互いに見知らぬものとして終わる。…
自分が、やがては家族にとっても「見知らぬ人」となる。
そして「物」となって終わる。死体は物ですからね。
物になれば、宇宙のさまざまなものと一体になるので、
そんなに寂しいわけないんですよ。存在との一体を回復するわけですね。
どんな人でも、家のなかでは有名人なんです。
赤ん坊として生まれて、名前をつけられて、有名な人なんですよ。
たいへんに有名です。家のなかで無名の人っていないです。
それは、たいへんな満足感を与えるんです。…
人間がそれ以上の有名というものを求めるのは間違いではないかと思いますね。
そのときの「有名」が自分にとって大切なもので、
この財産は大切にしようと思うことが重要なんじゃないですか。
最後は、お互いに見知らぬ人になり、そのときには家族のなかでさえ無名人です。
やがて物になる。人でさえない。そのことを覚悟すればいいんです。
(注:赤字はこっちでしました)
よい親、よい子どもになろうと(「親」「子ども」のところは
何でもよい)努力しても、いくら親子でも人間関係のこと
だからむずかしい。
(総じて生きることは思うようにはならない)
よい親よい子どもになろうと努力することはいいことだろうけれど、
その努力が叶うとは限らない。
(それに「よい親」「よい子ども」とは何だろう? わからない。
だから、「許して」「お許しください」と言うしかないのだろう)
「許し」のたいせつさを三砂さん鷲田さんから、
さめた(冷静な、突き放したような)目で家族を見ることの
それを鶴見さんから強く感じた。