カメキチの目

2006年7月10日が運命の分かれ道、障害者に、同時に胃ガンで胃全摘出、なおかつしぶとく生きています

2020.8.25 随所に主と作れば 立処皆真なり

      

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     随所に主と作(な)れば 立処皆真なり

      (ずいしょにしゅとなれば りっしょみなしんなり)

 

この禅語は3年前にも書いているので再登場。 

(3年もたてば読んでくださる方も大幅に変わっているし、自分のこの言葉への

思いにも少しは変化があります

 

 意味どおりにとれば、どんなところにあっても

(どういう場合でも)主体的に振るまうなら、そのことは

いつもあなたにとっては真実

若いとき、たまた読んだ夏目漱石の小説からとってきた「心の真実」という言葉を

気に入って、平気で口にしていたけれど結婚して所帯じみてきたら使うのが

気恥ずかしくなってきた。

いまも「心の真実」にウソはないが、たまに口にすると自分がキツネかタヌキの

ように思えてくる。

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「随所に主と作れば」。

「主と作る」。主体的になるとは、その場・その時の自分の心をいつわらない、

つまり、自分にウソをつかないことかと思う。

自分の心に正直になり、頭でしっかり考え判断し、行動を選択する

 

民主化を求める香港の民衆デモに、「黒人の命も大切だ」と叫ぶ人たちに、

警棒を振りまわし、殴り、引きずり、高圧水や催涙ガス浴びせる警察とは

何だろう?

ニュースをみていて「無抵抗の人々に、よくもそういう暴力が振るえる…」と

身震いする。

民主主義や人権を守り訴える人々に襲いかかる警官たち。

(主と作り、そういう暴虐をするのだろうか?できるのだろうか?)

いつもは親切、市民の味方・悪の敵であるはずの日本のおまわりさんも変身する

のだろうか? して欲しくない。

 

行政・司法など公務に就く人たちは、上から命令・支持を受けたとき、

たとえ自分本心(良心)は反対でも、「絶対服従」しなければならないと

考えるのだろうか?

(自分の意志には反していても、そうすることが国民・市民をまもることになり、

自分や家族の生活の安定につながる強引、ムリやり自らを納得させ、命令に従う

《それでも自分を「納得」させることができずに命令に従ったことを、後で後悔し

赤木俊夫さんは自死を選んだ》)。

 

中学を卒業して進んだ学校は「『白いカラスがいる』と上級生が言ったら、

『はい、白いカラスが…』と言え」と言われた。

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右も左もわからない1年生のときは、私も「そういうもんか」と思った。

人はこうして集団、組織によくも悪くも慣れ、自分の心に正直になり、

頭でしっかり考え判断し、行動を選択しなくなるのだろう 

 

「真」。

私は「事実(じじつ)」というのは一つであっても、「真実」は人の数だけあると

考える。

「私の真実」は(神に誓って 本心に)ウソをついていないのであって、

「真理(しんり)」かどうかということではないと考えている。

(警察官たちにとってのそれぞれの真実、佐川前近畿財務局長にとっての真実、

黒川元東京高検検事長にとっての真実… 

後者の二人のは神の前ではウソに違いない《本人たちにはウソをついているという

自覚がある》が、大勢の警察官のうちには、自分の行いを「真実」だと信じている

人もいるだろう《悲しいことだが、これが世の「事実(じじつ)」なのか》)

 

 どこでもどんなときでも自分の頭で考え判断し、

自分に正直であること。

(それが誤っていたと気がついたら反省し、新たに出なおせばいいわけである)

 

〈オマケ〉

取り返しのつかない罪を犯したと思えば、死んでお詫びするのではなく《ドラマで

よくあるように》罪を背負って生きていくことだと思うが、

「罪」と呼ばれるほどのものではない個人的なのは私だってある(恥ずかしい、

そしられても仕方ないような行いをしたこと)。

死に際に、閻魔大王に問い詰められ白状するか?墓場まで持っていくか?

(悩みどころだ)

 

 


ふーむ  らかんさん

                         ちりとてちん

 

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