随所に主と作(な)れば 立処皆真なり
(ずいしょにしゅとなれば りっしょみなしんなり)
この禅語は3年前にも書いているので再登場。
(3年もたてば読んでくださる方も大幅に変わっているし、自分のこの言葉への
思いにも少しは変化があります)
意味どおりにとれば、どんなところにあっても
(どういう場合でも)主体的に振るまうなら、そのことは
いつもあなたにとっては真実。
若いとき、たまた読んだ夏目漱石の小説からとってきた「心の真実」という言葉を
気に入って、平気で口にしていたけれど、結婚して所帯じみてきたら使うのが
気恥ずかしくなってきた。
いまも「心の真実」にウソはないが、たまに口にすると自分がキツネかタヌキの
ように思えてくる。
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「随所に主と作れば」。
「主と作る」。主体的になるとは、その場・その時の自分の心をいつわらない、
つまり、自分にウソをつかないことかと思う。
自分の心に正直になり、頭でしっかり考え判断し、行動を選択する。
民主化を求める香港の民衆デモに、「黒人の命も大切だ」と叫ぶ人たちに、
警棒を振りまわし、殴り、引きずり、高圧水や催涙ガスを浴びせる警察とは
何だろう?
ニュースをみていて「無抵抗の人々に、よくもそういう暴力が振るえる…」と
身震いする。
民主主義や人権を守り訴える人々に襲いかかる警官たち。
(主と作り、そういう暴虐をするのだろうか?できるのだろうか?)
いつもは親切、市民の味方・悪の敵であるはずの日本のおまわりさんも変身する
のだろうか? して欲しくない。
行政・司法など公務に就く人たちは、上から命令・支持を受けたとき、
たとえ自分の本心(良心)は反対でも、「絶対服従」しなければならないと
考えるのだろうか?
(自分の意志には反していても、そうすることが国民・市民をまもることになり、
自分や家族の生活の安定につながると強引、ムリやり自らを納得させ、命令に従う
《それでも自分を「納得」させることができずに命令に従ったことを、後で後悔し
赤木俊夫さんは自死を選んだ》)。
中学を卒業して進んだ学校は「『白いカラスがいる』と上級生が言ったら、
『はい、白いカラスが…』と言え」と言われた。
右も左もわからない1年生のときは、私も「そういうもんか」と思った。
人はこうして集団、組織によくも悪くも慣れ、自分の心に正直になり、
頭でしっかり考え判断し、行動を選択しなくなるのだろう。
「真」。
私は「事実(じじつ)」というのは一つであっても、「真実」は人の数だけあると
考える。
「私の真実」は(神に誓って 本心に)ウソをついていないのであって、
「真理(しんり)」かどうかということではないと考えている。
(警察官たちにとってのそれぞれの真実、佐川前近畿財務局長にとっての真実、
黒川元東京高検検事長にとっての真実…
後者の二人のは神の前ではウソに違いない《本人たちにはウソをついているという
自覚がある》が、大勢の警察官のうちには、自分の行いを「真実」だと信じている
人もいるだろう《悲しいことだが、これが世の「事実(じじつ)」なのか》)
どこでもどんなときでも自分の頭で考え判断し、
自分に正直であること。
(それが誤っていたと気がついたら反省し、新たに出なおせばいいわけである)
〈オマケ〉
取り返しのつかない罪を犯したと思えば、死んでお詫びするのではなく《ドラマで
よくあるように》罪を背負って生きていくことだと思うが、
「罪」と呼ばれるほどのものではない個人的なのは私だってある(恥ずかしい、
そしられても仕方ないような行いをしたこと)。
死に際に、閻魔大王に問い詰められ白状するか?墓場まで持っていくか?
(悩みどころだ)