カメキチの目

2006年7月10日が運命の分かれ道、障害者に、同時に胃ガンで胃全摘出、なおかつしぶとく生きています

2021.1.5 『エンド・オブ・ライフ』

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暮れに「丸い時間」という記事を書いた。 

 

・時間は宇宙の誕生とともに生まれ、始まった。

ということは、自分にとっては自分が生まれたとき始まったわけで、死んだら

終わる。宇宙も地球も、早いか遅いかだけで、時間の本質は同じなのか)

       

 

・いちばん底の深いところに宇宙の時間、次に地球の時間、その次に生命の時間、

次の次に動物の時間、おしまいに人類の時間があり、そしていちばん浅いところの

表面に自分が存在し、自分の時間があるという。

そして、さまざまな時間は層を成しているという。→「時間層」 

・一見したところ「時間層」は一方向だけに単純に進んでいくに見えるけれど

ホントのところは、宇宙空間のように、人間感覚ではピンとこなくても曲り

なっているのかもしれない(地球が丸いのも同じだろうか)。 

・そう考えると、中心が想像でき、その中心点は不動だから時間は進まない。

つまり「永遠」のイメージも浮かんできた。

 

「永遠」がイメージできると「天国」とか「極楽」も想像でき、死への不安が

和らいでくる。

それに、死んだときは生きてはいないので、死を不安がるヒマはない。

その瞬間までは生きているのだ。

ギリギリのときまでひたすら生に集中しよう。

 

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同じころ

『エンド・オブ・ライフ』  佐々涼子 という本を読んでいた。

                      ゆきれぽ » 『エンド・オブ・ライフ』

                       (グーグル画像より)

こっちは生と死を「断想」という形ではなく、在宅医療を取材するなかで見えた

生死の問題をルポルタージュという方法で描いたもの。

とても深く考えさせる本だった。

 

著者自身のお母さんが難病で何ひとつできない状態だが、赤子を愛しむ母のごとく

世話をするお父さん。娘としての自分にはとても父のような愛情ゆたかな介護は

無理と自覚する家族のこともはさみながら、取材した死を前にした他人、他の家庭

家族の姿をあぶり出してゆく。

 

これもすべてよかったけれど、強く印象に残ったひとつだけを。

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【引用】

患者の人生観を理解し、その人に応じた最期の時間を設けてくれる医師が、

何人いるだろう。

告知される側にとっては、もっとも過酷な言葉は投げかけられる時なのだ。

そもそも死の捉え方は、人によってまったく違う。

医師がどんな考えを持っているかによっても、

我々の最期の時間は変わってしまうのだ。

看取りについて、医療関係者にただ丸投げしてしまうことの恐ろしさを考えた。

医師も人間なのだ。

 

服を買う時は試着する。美容院に行って髪を切ってもらう時は、

相性のいい美容師に任せる。

それなのに、人は医師がどんな死生観を持っているのかを知らずに、

自分の運命を委ねるのだ。…

 

(注:太字はこっちでしました)

 

「丸投げ」か…。

「私の最期はあなた方(特に主治医)にお任せします」ということか。

ここを読むまで、あまり遠くないわが現実なのに真剣に考えたことがないことに

気がついた。

「丸投げ」。たしかに恐ろしいことだと感じた。

 

身体の痛みにはからっきしダメなので、そのとき「のたうち回る」ところまで

いかぬうちにモルヒネなど麻薬を使って痛みをとって(でもとり過ぎて意識が

混濁し、最後の「ありがとう」が言えなくなってはならぬ)ほしいと前々から

ツレに言っていたが、丸投げのような単純な看取られ方ではいけないと思った。

看取ってくれる医師や主治医の人生観、人がらを見きわめておかなくてはならぬ!

それによってどんな死に方を実行するか?

(しかし、死がまぢかに迫っているとき、そんなことが考えられるだろうか?と

頭をかしげたが、続いて、そのときは神さまが自分にいちばんふさわしい死を

用意してくださるに違いないという考えが起き、安心した)

 

 

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                          ちりとてちん

 

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