暮れに「丸い時間」という記事を書いた。
・時間は宇宙の誕生とともに生まれ、始まった。
ということは、自分にとっては自分が生まれたとき始まったわけで、死んだら
終わる。宇宙も地球も、早いか遅いかだけで、時間の本質は同じなのか)
・いちばん底の深いところに宇宙の時間、次に地球の時間、その次に生命の時間、
次の次に動物の時間、おしまいに人類の時間があり、そしていちばん浅いところの
表面に自分が存在し、自分の時間があるという。
そして、さまざまな時間は層を成しているという。→「時間層」
・一見したところ「時間層」は一方向だけに単純に進んでいく→に見えるけれど
ホントのところは、宇宙空間のように、人間感覚ではピンとこなくても曲り〇に
なっているのかもしれない(地球が丸いのも同じだろうか)。
・そう考えると、中心が想像でき、その中心点は不動だから時間は進まない。
つまり「永遠」のイメージも浮かんできた。
「永遠」がイメージできると「天国」とか「極楽」も想像でき、死への不安が
和らいでくる。
それに、死んだときは生きてはいないので、死を不安がるヒマはない。
その瞬間までは生きているのだ。
ギリギリのときまでひたすら生に集中しよう。
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同じころ
『エンド・オブ・ライフ』 佐々涼子 という本を読んでいた。
(グーグル画像より)
こっちは生と死を「断想」という形ではなく、在宅医療を取材するなかで見えた
生死の問題をルポルタージュという方法で描いたもの。
とても深く考えさせる本だった。
著者自身のお母さんが難病で何ひとつできない状態だが、赤子を愛しむ母のごとく
世話をするお父さん。娘としての自分にはとても父のような愛情ゆたかな介護は
無理と自覚する家族のこともはさみながら、取材した死を前にした他人、他の家庭
家族の姿をあぶり出してゆく。
これもすべてよかったけれど、強く印象に残ったひとつだけを。
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【引用】
「患者の人生観を理解し、その人に応じた最期の時間を設けてくれる医師が、
何人いるだろう。
告知される側にとっては、もっとも過酷な言葉は投げかけられる時なのだ。
そもそも死の捉え方は、人によってまったく違う。
医師がどんな考えを持っているかによっても、
我々の最期の時間は変わってしまうのだ。
看取りについて、医療関係者にただ丸投げしてしまうことの恐ろしさを考えた。
医師も人間なのだ。
服を買う時は試着する。美容院に行って髪を切ってもらう時は、
相性のいい美容師に任せる。
それなのに、人は医師がどんな死生観を持っているのかを知らずに、
自分の運命を委ねるのだ。…」
(注:太字はこっちでしました)
「丸投げ」か…。
「私の最期はあなた方(特に主治医)にお任せします」ということか。
ここを読むまで、あまり遠くないわが現実なのに真剣に考えたことがないことに
気がついた。
「丸投げ」。たしかに恐ろしいことだと感じた。
身体の痛みにはからっきしダメなので、そのとき「のたうち回る」ところまで
いかぬうちにモルヒネなど麻薬を使って痛みをとって(でもとり過ぎて意識が
混濁し、最後の「ありがとう」が言えなくなってはならぬ)ほしいと前々から
ツレに言っていたが、丸投げのような単純な看取られ方ではいけないと思った。
看取ってくれる医師や主治医の人生観、人がらを見きわめておかなくてはならぬ!
それによってどんな死に方を実行するか?
(しかし、死がまぢかに迫っているとき、そんなことが考えられるだろうか?と
頭をかしげたが、続いて、そのときは神さまが自分にいちばんふさわしい死を
用意してくださるに違いないという考えが起き、安心した)