カメキチの目

2006年7月10日が運命の分かれ道、障害者に、同時に胃ガンで胃全摘出、なおかつしぶとく生きています

2021.1.8 『しょぼくれ…』

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『しょぼくれ老人という幸福』 ひろさちや・著

という本を読んだ。 

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                          (グーグル画像より)

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このところ3冊つづけて、内容も書かれ方も異なるけれど、生と死、生き方を

考えさせる本を読んだ。

ガンバリやでなくても、「しょぼくれ老人」あっても大丈夫! 幸せになれます

深くうなずけられるよう述べられている。

(本は、「しょぼくれ…」「さえない…」私を強く激ましてくれた)

 

 

ひろさんは仏教者なのに、『「狂い」のすすめ』とか『「いい加減」のすすめ』

とか『捨てちゃえ捨てちゃえ』とか『がんばらない、がんばらない』など、一見

したところ不真面目な題名の本を出しておられるけれど(学者でもあるので

法華経」や「正法眼蔵」など、ちょっと肩がこりそうなものもある)、真意は

だれも身近に神・仏、自然など人間の力を超えた存在を感じて生き、決して奢って

いけない、神・仏、自然などに抱かれれば、世間の常識・処世術などがいかに

つまらない、紛いものかがわかるということだ。

 

『「狂い」…』や『「いい加減」…も読んだ者として言うならば、(著者もそう

自称されていますが)正真正銘の「仏教原理主義者」だと思います。

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ひろさんの真意は別の角度からみれば、この本もこれまで読んだのもみんな

次のように言っていると、私は思いました。

文明が生まれるとともに、社会はどこであれどんな時代であれ、生なましい欲望と

悪徳、理不尽(と、現代の私たちからみればそう感じるだけでしょうが)に満ち

みちており、また仏教では人間が生きることそのものが苦(「四苦」《「生・老・

病・死》)である。

それならば、社会からの苦痛や、避けようのない個人の根源的な苦(「四苦」)に

押しつぶされるのではなく、受けいれるべきものは受けいれ、受けいれられない

ものは抗うなりそおっとやり過ごすなり笑いとばすなりして、幸福に生きようと。

 

前に読んだひろさんの本に、すごく印象に残った話があった。

ある日の講演が終わったとき青年が楽屋裏に訪ねてき、「自分はひきこもり状態に

あるが、どうすればひきこもりから抜けだせるか?」と聞いてきたので、

「せっかくひきこもっているのだからこのまま続ければいいと私は思う。あなたに

とってひきこもりは生きるうえで必要だったのではないだろうか。

イヤになったときやめたらどうか」と答えたという。

 

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心に強く残ったことだけ二つ書きます。

 

① 人は生まれるときも死ぬときもひとり

 孤独であるがひとりで生きてきたわけではないので

感謝、感謝…∞…、究極、それしかない。 

【引用】

感謝の気もちで「寂しさ」に耐える

ああ、あのときは寂しかったなぁ。ああ、あのときは苦しかったなぁ。

けれど、じっくり思い起こすと、なかなかいい体験だったなぁ…。

そんな味わいこそ、本物の人生の味わいじゃないでしょうか。

人はひとり生まれ、ひとり生き、ひとり死んでいく。

人は孤独なのだと心にとどめたうえで、自分の内側の声に耳を傾ける…

 

(注:太字はこっちでしました)

 

「不幸中の幸い」という言葉があるけれど、障害を負うだけで助かった私の命。

あの事故との遭遇いらい、死ぬことなく生きのこったという気もちが強烈なので、

(しばしば忘れそうになるけれども)「もうけもの」「オマケ」の命だと思うよう

にしようと思ってきた。

それをあらわすには感謝しかない。

生きているので感謝できるのだ。

(死んでいたら、感謝できなかったわけだ。

生きていることすべてに感謝したくなる。生きているから感謝できる)

 

谷川俊太郎さんという詩人の詩に大好きな「生きる」というのがある。

初めだけちょっと引用します。

【引用】「生きているということ

      いま生きているということ
      それはのどがかわくということ
      木もれ陽がまぶしいということ
      ふっと或るメロディを思い出すということ
      くしゃみをすること

      あなたと手をつなぐこと

      …

② 夜

【引用】「死者のことは忘れよう

その寂しさは去った人を愛していたからこそで、

「この寂しさこそ愛の証しなんだ」という気もちを抱きしめ、味わうしかない…

しかし、喜びをいつまでも持ち続けていられないように、

寂しさもいつしか薄らいでいきます。

そもそも、仏教では、「死者を忘れる」ことこそが死者を救うと教えています。

遺族がいつまでも死者を忘れずに供養をしてあげると幸せになる、というのは

本来の仏教の考え方ではありません。

(続けて著者はインドの古代文献『ブラーフマナ』の、世界の始めに神様は

「昼」だけでなく「夜」もつくったという昼と夜の起源の物語にふれ)

ここで神様が夜をつくったということは、

まさに「死者を忘れなさい。忘れていいんですよ」ということなのです。…

忘れることが大きな供養…

 

(注:(黒字の説明)はこっちでしました)

 

何年もかけての回忌供養は、親しい人が永久にいなくなったという事実を自然に

受けいれてゆくためうまく工夫された癒しの儀式だという話をどこかで聞いたこと

があった。

「受けいれる」というが「納得」し、「忘れる」ことなんだろう。

 

 

 

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                         ちりとてちん

 

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