きょうは「自由」と「豊かさ」(≒「幸せ」)について。
(ここでいう「自由」は、「自由・平等」という人類の理念的なものを指してはいません。
「時間とテクノロジー」次元、日常生活レベルでの「〇〇を選ぶ」という「選択の自由」など)
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自由 自由と豊かさ
【引用】
「選択する、判断するというのはけっこう面倒な行為…」
「「選ぶ」ということに割くことができるわれわれの頭脳のリソースは有限…」
「どんな自由でも素晴らしいわけじゃない。私たちは、どの自由を優先するのか
ということも選んだほうがいい…」
「自由」は自分でつくる、つまり主体的に創造するのが理想でも、時間に追われる
ような現実は用意された(与えられた)いくつから判断して選ぶことが多い。
→「選択の自由」
用意された選択肢が少ないと思うと「不自由」を感じ、
逆に選択肢が多ければ判断し選択することが面倒なことに感じられ、
「不自由」な感じになる。
「豊かさ」の程度は「自由」の程度に比例することがあっても、同じではない。
(「自由」が少なくても豊かな、幸せな気もちになれるし、「自由」がたくさんあっても不幸せで
あったりする。
人間というのはそもそもが面倒くさい、複雑な存在なのだからか)
「自由」には「責任」が伴うといわれる。
何かの自由を実現しようとすれば、何らかの責任を持つことになり、
それから生まれる「不自由」(面倒くささ)は引きうけなければならない。
「どんな自由でも素晴らしいわけじゃない」のだ。
「どの自由を優先するのかということも選んだほうがいい」のだ。
(注:太字はこちらでしました)
【引用】
「「ティッシュペーパーやUSB-Cケーブルにはたいして期待できない」
ということを、私たちはもう知ってしまいました。…
収入がたいして増えないのに選択肢だけが増えていっても、
得することは何もないのです。…」
ティッシュペーパーなどの商品ごとの違いはたいしてない。
スーパーや100円ショップなどでは目がクラクラするほど多種多様な商品があり
感心するけれども、正直ここまで細かな差異が必要かと思ってしまう。
(これら豊富な商品の行く末、結末《始末、処分》はどうなるのだろう?
もったいないことしていれば、いつかは「天罰」となって身に降りかかる気がする。
「棄てるか捨てないかも選択の自由」。そういう自由は「豊か ≒「幸せ」にはつながらない)
【引用】
「イスラムでは、人の選択は人の決めることではなく、神のわざであると考えます
だから何かを選択し、それが失敗に終わったとしても、イスラムの人びとはこう
つぶやくのです。
「すべては神のお決めになったことだ」…」
仏教の「他力信仰」を連想した。
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「豊かさ」といったとき、「物質的な」それと「精神的な(心の)」ものとがある
世界には、物には圧倒的に恵まれていない、貧しい地域、国が圧倒的に多い。
でも、ブータンのように国民の幸せ度が世界一のところがある。
(「テクノロジー」がどんどん進み、どんどん便利で快適な生活は可能になり、時間を合理的に消費し
それでもって節約できたとしても、心が豊かになるわけではない)
本は一貫して、「本当に自由とは価値のあるものなのか?」と問うていた。
「自由」が何を「豊か」にしてくれるのかと。
現代日本のような物が豊かな社会で、「選択の自由」もたいせつだけど、
もっと「心の豊かさ」「幸せ」の価値に気づいてほしい…と著者は主張している
ように感じられた。