カメキチの目

2006年7月10日が運命の分かれ道、障害者に、同時に胃ガンで胃全摘出、なおかつしぶとく生きています

2021.3.19 「ナッジ」とは?

 

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パソコンを初めて触るようになったころ、その初歩的な原理、仕組みを知って

おきたいと本や雑誌をめくっていたころ、「アーキテクチャー」という言葉を

耳にしたことがあった。

アーキテクチャー」についてはいろいろ説明されているようですが、

この本でも述べられていたように、「ナッジ」とよく似たところがあるらしい。 

あえてそういうところだけを「ウィキペディア」より引用すれば

【引用】

人間の行為を制約したりある方向へ誘導したりするようなウェブサイトやウェブコミュニティの構造、

あるいは実際の社会の構造もアーキテクチャと呼ぶ。

ジョージ・リッツアは著書『マクドナルド化する社会』において、アーキテクチャ具体例として

ファーストフード店の硬いイスをあげている。

客を長居させず、それによって回転率を上げるような設計になっている

 

マクドナルド」のイスは硬い。

硬いことを客がイヤに感じることなく、少しでも早く気づいて立ちあがり、店を

出て行くよう、「そろそろお立ちするのがよろしいのでは…」それとなくイスが

やさしく囁いているかのよう「演出」、「細工」する。

 

「ナッジ」もそういうもので、身近に存在しているらしい。ちなみにナッジとは  

【引用】:大和ネクスト銀行」のHPより

「ナッジ」 (nudge:そっと後押しする) という言葉を聞いたことはあるだろうか。

ノーベル経済学賞で注目を集めた行動経済学で登場し、肘で軽く突くという意味を含むが、

まだまだ馴染みがほとんどないという人が多いのではないだろうか。

しかし、すでに生活の中で活用されており、気が付かないうちにナッジの概念に触れている

のかもしれない。

 

 「自由」と「ナッジ」の関係がきょうの話題です。

 

ーーーーーーーーーーー

【引用】

ナッジの本質

完全な自由と、父権主義。

なぜこれがナッジでは両立するのかというと、人々の選択の自由は完全に確保されているけれども、

知らず知らずのうちにその選択が良い方向へと向かわされていて、

結果的に誘導されているからです。

つまり「自分では自由だと感じているけれど、実は命令されている

 

「ナッジ」とは、あえて日本語にすれば「そっと後押しする」こととのこと。

じつは本人が気づいていないだけで親が子どものために「善(良・好)かれ」と

隠れて行う世話やきのようなもの(行き過ぎれば「お節介」としてイヤがられることもある)

そっと後押し」しているようなもの。

(「アーキテクチャー」と違い、気づかれないのがミソだろうか)

自分では自由だと感じているけれど」背後では何ものかに導かれている

というわけである。

 

ところで、その誘導先は「正しい」のだろうか?

 

【引用】

ナッジは人を正しい方向に導くのか

ナッジは進化して、ビッグデータをAIによって分析することで、

さらに人々を誘導しやすくなってきていますが、AIは「どう誘導するとうまくいくのか」という

解決策を出すことはできても、このゴールが正しいのか」ということまでは計算できません。…

正しい方向に人を導いているのかどうかという倫理的な問題はつねに残る

その倫理の問題を担保するためには、AIがどのような判断をしているのか…見える化」していく

必要があるでしょう。…

 

より多くのデータを集積することでコンピュータ頭脳(AI)はますます進化する。

そして私たちの生活を限りなく便利・快適にし、惹きつける。

その魅力から離れるのはきわめてむずかしい。

(なぜなら、人類の進歩、歴史の進んできた道、方向を見ると、明らかに《平等・自由などの

人間的理念の実現に関わらず》生活スタイルの向上・進歩にあらわれている)

 私たちは知らずしらずの間に便利・快適な生活に慣れ、そういう世界のなかでは

「自由」はもうあまり意識しない。 

 

「ナッジ」の存在を知り、それをよけいなお節介、「うっとうしい、邪魔だ…」

と感ずる人は、少々便利で快適でなくとも、手間ひまがかかっても、オリジナル

「おもしろい」「楽しい」を求めるのだろう。

                  

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【引用】

人間の選択の自由はなくなり、機械が正しい方向に導いてくれるけれども、

その理由は人間にはわからない

こういう事態を私たちは引き受けることができるかのかどうか。

それはそもそも「人間的」であるのかどうか。

そういう難問がこれから立ちはだかってくるのです

 

 (注:以上の引用の字・太字はこちらでしました)

 

本はあくまでも「時間とテクノロジー」。

だからか述べられていなかったけれど、私はテクノロジー、技術の進展が

単に便利・快適な生活スタイルを実現してくれるだけではなく有名な「アラブの春」のきっかけが

SNS通じての民主化の呼びかけ、発信にあったように)逆に人々に

間の普遍的理念の尊さを気づかせるのではないかと思った。

いまのミャンマー民主化の運動を見ていると(この前の香港も)、多くの人々が

スマホの画面に見いっている。

 

「自由」とは人類の普遍的理念であるばかりではなく、ほとんど性能が変わらない

トイレットペーパーやUSB‐Cケーブルなど商品の選択のような面倒くさい行為で

っても、それが非合理的な非効率的な行為であっても、 人間が人間である限り

止むことはない。

それが 

人間の選択の自由はなくなり、機械が正しい方向に導いてくれるけれども、

その理由は人間にはわからない

こういう事態を私たちは引き受けることができるかのかどうか。

それはそもそも「人間的」であるのかどうか

への私の思い、考え。

 

 

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                            ちりとてちん

 

 

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