カメキチの目

2006年7月10日が運命の分かれ道、障害者に、同時に胃ガンで胃全摘出、なおかつしぶとく生きています

2021.3.23 「オートポイエーシス」? 思ったこと

          f:id:kame710:20200815141541p:plain

 

『時間とテクノジーはいろいろ考えることが多い本でした。

記事は終えるつもりでしたが、もう一つどうしても書きたいことが出てきました。

オートポイエーシス」です。

 

しっかりとは理解できませんでしたが、「当事者」ということ、仏教、禅の精神に

通じるようなものの二点を感じ、惹かれました。

 

                     f:id:kame710:20210317103942j:plain

----------

①「当事者」

【引用】

オートポイエーシスとは何か

(著者は四つの特徴を挙げる)①自立的 ②一つの個体 ③自分で決めた外との境界を持つ 

④外への入力も出力もない… (細胞のようなものだという)

細胞が一人の個人だと仮定すれば、彼(彼女)にとっては人生はただ無我夢中で生き延びるだけのもの

であって…オートポイエーシスは、まさにこの細胞という当事者の「視点」を重視する考え方 

脳にとっては…外部から入力された風景であっても、脳の海馬によって再現された風景であっても

同じように扱われていて、そこに区別はないということ…

「機械か人間か、仮想か現実か」はもはや意味がない…

 

オートポイエーシスは当事者の世界観であり、私たちが生きているこの環境、この世界が

すべての私たちの生存と再生産のために存在していると捉える

 

(注:下線はこちらでしました)

----- 

よくわかっていない気がするけれど、自分に都合のいいような(ためになる)

解釈(受けとり方)をすると、オートポイエーシスは当事者の世界観

という部分が強い印象を与えた。

 

おもしろかったので著者の他の本『「当事者」の時代』を読んでみた。

(そっちは「当事者」そのものが書名ともなっており、著者の「当事者」へのこだわりが

強く伝わってきた。ちなみに「当事者」とは「本人」と言い換えてもよい)

 

お終いの「私たちが生きているこの環境、この世界がすべての…というのは

まるで「オートポイエーシス」という万能の神が、個人としての「当事者」に

宿っているようでアレ?と気になり(著者は人間を社会から切り離し、個人の生人生》を

ただの生物(細胞)としてみなしていると)反発したが、「人間」を他の生きものとは

違ってとくべつ偉い、生物の頂点という考え方に疑いを持つようになった今では

「当事者」という考えに強い新鮮味をおぼえた。

 

機械か人間か、仮想か現実か」…」。

それが機械であろうと仮想であろうと、「当事者」である自分にとっては「事実」

なのだ。

                  f:id:kame710:20210317102445j:plain

(前に『苦海浄土』を読んだとき、著者の石牟礼さんが水俣病裁判において、告発者・原告の主人公は

被害者でなくてはならない、支援者の市民団体や労組や政党、原告側弁護士などであってはならない、

なぜなら「当事者」は被害者自身なのだから、という意味のことを書かれていたことを思いだした)

-----

②禅の精神

【引用】

生命の主体である「誰か」が核酸にタンパク質を合成せよ、と命じたのではない。

核酸とタンパク質が相互作用したときに、その相互作用が自律的な動きとしてシステムになり、

それが動き続けることで生命の主体になったということ… 

ここでは外部も内部もありません。システムが動きはじめることによって外部は内部になり、

システムが終わると内部は外部になる。そのくり返し…

これはまさに、外からの入力もなく外への出力もなく、…動き出した瞬間に生命の動きが立ち上がり、

自ら思考するというのと同じこと… 

「生」に目的は必要ない…

 

オートポイエーシスの論理からわかってくるのは、…「目的など存在しない」ということです。

目的があって生命が生まれるのではなく、相互作用によって活動が始まったから、

ただその瞬間に生命は立ち上がるのだということ。

「今この瞬間」の相互作用によってのみ、私たちの生も立ち上がる…

 

(注:太字はこちらでしました)

ーーーーー

「今この瞬間(この時間)」と「ここ(自分の居る場所)」をだいじにして生きる

「今ここ」にしか自分の存在はない。

「今ここ」以外のモノ・コトは「虚」であり、それらにとらわれこだわっては

ならない、というのは禅の根本精神。

 

目的など存在しない」というのも諸法無我」)相互作用(縁)というのも

仏教、なかんずく禅と共通するところがあると感じられ、深くうなずいた。

 

オートポイエーシス」ということから、私(当事者)としては、生まれたから

生きている(のであって、何かのためにというのはない)、今ここにいるという事実に

あらためて気がついた。 

 

※ 私の記事ではまったく触れませんでしたが、『時間とテクノジーでは大きなテーマとして

人生を「原因→結果」、つまり単純な「因果応報的な物語」としてとらえるのではなくて、そこには

共時性」、つまり「シンクロニシティ」のような無意識的なものも働いているととらえることの

たいせつさが強調されていました。

ちょうど愛読のブログでrecocaさんが仏教について書いておられ、またまたシンクロし、不思議を

味わっています。          

 

recoca1940.hatenablog.com

 

 

                           f:id:kame710:20171029114701j:plain

                            ちりとてちん

<