『時間とテクノジー』はいろいろ考えることが多い本でした。
記事は終えるつもりでしたが、もう一つどうしても書きたいことが出てきました。
「オートポイエーシス」です。
しっかりとは理解できませんでしたが、「当事者」ということ、仏教、禅の精神に
通じるようなものの二点を感じ、惹かれました。
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①「当事者」
【引用】
「オートポイエーシスとは何か
(著者は四つの特徴を挙げる)①自立的 ②一つの個体 ③自分で決めた外との境界を持つ
④外への入力も出力もない… (細胞のようなものだという)
細胞が一人の個人だと仮定すれば、彼(彼女)にとっては人生はただ無我夢中で生き延びるだけのもの
であって…オートポイエーシスは、まさにこの細胞という当事者の「視点」を重視する考え方…
脳にとっては…外部から入力された風景であっても、脳の海馬によって再現された風景であっても
同じように扱われていて、そこに区別はないということ…
「機械か人間か、仮想か現実か」はもはや意味がない…
オートポイエーシスは当事者の世界観であり、私たちが生きているこの環境、この世界が
すべての私たちの生存と再生産のために存在していると捉える…」
(注:下線はこちらでしました)
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よくわかっていない気がするけれど、自分に都合のいいような(ためになる)
解釈(受けとり方)をすると、「オートポイエーシスは当事者の世界観」
という部分が強い印象を与えた。
おもしろかったので著者の他の本(『「当事者」の時代』)を読んでみた。
(そっちは「当事者」そのものが書名ともなっており、著者の「当事者」へのこだわりが
強く伝わってきた。ちなみに「当事者」とは「本人」と言い換えてもよい)
お終いの「私たちが生きているこの環境、この世界がすべての…」というのは
まるで「オートポイエーシス」という万能の神が、個人としての「当事者」に
宿っているようでアレ?と気になり(著者は人間を社会から切り離し、個人の生《人生》を
ただの生物(細胞)としてみなしていると)反発したが、「人間」を他の生きものとは
違ってとくべつ偉い、生物の頂点という考え方に疑いを持つようになった今では
「当事者」という考えに強い新鮮味をおぼえた。
「「機械か人間か、仮想か現実か」…」。
それが機械であろうと仮想であろうと、「当事者」である自分にとっては「事実」
なのだ。
(前に『苦海浄土』を読んだとき、著者の石牟礼さんが水俣病裁判において、告発者・原告の主人公は
被害者でなくてはならない、支援者の市民団体や労組や政党、原告側弁護士などであってはならない、
なぜなら「当事者」は被害者自身なのだから、という意味のことを書かれていたことを思いだした)
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②禅の精神
【引用】
「生命の主体である「誰か」が核酸にタンパク質を合成せよ、と命じたのではない。
核酸とタンパク質が相互作用したときに、その相互作用が自律的な動きとしてシステムになり、
それが動き続けることで生命の主体になったということ…
ここでは外部も内部もありません。システムが動きはじめることによって外部は内部になり、
システムが終わると内部は外部になる。そのくり返し…
これはまさに、外からの入力もなく外への出力もなく、…動き出した瞬間に生命の動きが立ち上がり、
自ら思考するというのと同じこと…
「生」に目的は必要ない…」
「オートポイエーシスの論理からわかってくるのは、…「目的など存在しない」ということです。
目的があって生命が生まれるのではなく、相互作用によって活動が始まったから、
ただその瞬間に生命は立ち上がるのだということ。
「今この瞬間」の相互作用によってのみ、私たちの生も立ち上がる…」
(注:太字はこちらでしました)
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「今この瞬間(この時間)」と「ここ(自分の居る場所)」をだいじにして生きる。
「今ここ」にしか自分の存在はない。
「今ここ」以外のモノ・コトは「虚」であり、それらにとらわれこだわっては
ならない、というのは禅の根本精神。
「目的など存在しない」というのも(「諸法無我」)「相互作用」(縁)というのも
仏教、なかんずく禅と共通するところがあると感じられ、深くうなずいた。
「オートポイエーシス」ということから、私(当事者)としては、生まれたから
生きている(のであって、何かのためにというのはない)、今ここにいるという事実に
あらためて気がついた。
※ 私の記事ではまったく触れませんでしたが、『時間とテクノジー』では大きなテーマとして
人生を「原因→結果」、つまり単純な「因果応報的な物語」としてとらえるのではなくて、そこには
「共時性」、つまり「シンクロニシティ」のような無意識的なものも働いているととらえることの
たいせつさが強調されていました。
ちょうど愛読のブログでrecocaさんが仏教について書いておられ、またまたシンクロし、不思議を
味わっています。 ↓