カメキチの目

2006年7月10日が運命の分かれ道、障害者に、同時に胃ガンで胃全摘出、なおかつしぶとく生きています

2021.4.9  サル、ゴリラたちと人間 

          f:id:kame710:20200815141541p:plain

 

 

 『〈こころ〉はどこから来て、どこへ行くのか』という本を読んだ。

                        f:id:kame710:20210325144421p:plain

                       (グーグル画像より)

大学の先生5人が、「こころ(心)」についてそれぞれの専門、立場から講義

されたもの。

 

心がテーマなので宗教(哲学)、心理、神経・脳など内面の話が多かったが、

外面というか、人間によく似た動物との比較から心を探るゴリラ研究で有名な

山極寿一さん話がとてもおもしろかった

山極さんの話はこころの起源‐共感から倫理へ 

(みんな書きたいのですが、長くなるので興味深く感じた二つのことだけ 

 

(注:以下の【引用】はすべて字。 なお黒字の・()〈〉及び赤字、下線は私がしたもの) 

 

ーーーーーーーーーー

① サルは優劣の認知を前提とした社会

 

【引用】

食べ物をめぐるルール

先験的不平等に基づくサルの社会性は、優劣の認知によって支えられています。

自分がいったい群れの中でどういう社会的位置にあるか。それをきちっと認識し、それを表情や

しぐさや構えで表現しないと、安定してその群れに存在できない。…

強いサルがやってくると、弱いサルは食物に手が出せません。

弱いサルは劣位の表情を浮かべて(専門用語で「グリメイス」という)

相手のサルに自分に敵意がないことを知らせなければいけない。

 

動物園では柵の向こうのサル島で、母が子の毛をつくろっている平和で穏やかな

姿を目にし、見ているこちらまで安らぐ。

その安らぎも、キャッキャッ、キィーキィー、強いのが弱いのを追いかけている

姿を目にすると、消えうせる。

しかし、強いサルが追っぱらい、弱いサルは逃げる、で終わる。

(ケンカにはならない。弱いサルは逃げ、強いサルもしつこく追わない)

先験的不平等…サルの社会性は、優劣の認知によって支え…」ということが

よくわかる。

 

勤め先が児童福祉施設だったので、わざわざ動物園に行かなくても、その施設が

山の麓にあり、ときどき招かざる客としてサルの集団が訪れた

周囲は田んぼや畑、柿の木があり、とくに実りの季節にはたびたびやってきた。 

 

いちおう危険なのでじっくりとはいかないが、彼らの行動をしばらく観察すると

群れのリーダー、すなわちボスがわかる。体格がよくどっしり落ち着いている。

そのボス猿と闘ったことがある(といっても棒のようなもので威嚇するだけ)

すると、こちらを睨みつけ、歯をむく(逆にこちらを威嚇するのだ)

 

彼を見ると「先験的不平等に基づく…」とはいうものの、群れ、みんなのために

率先して敵(いまの場合、私、人間)と闘おうとしており、身心とも優れた個体、

さすがリーダーだと感心する。

「敵ながらあっぱれ」と感心せざるを得ない。

ボスとなった個体は立派な体格と統率力など優れた能力を備えていた《彼がリーダーとなったことは

生まれついての立派な体格と統率力など優れた能力を持っていたというたまたまのことである》。

よいか悪いの問題ではないが、人間だけが、人間的に優れていなくてもリーダーになれることが、

トランプや安倍たちを見ればよくわかる。 

「個体」で勝負するならだんぜん人間有利でも、「社会」で勝負すればサルが勝ちそうだ)

 

掃除用のモップや箒で追っぱらおうとしたら、「キィーキッ!!!」

思わずひるんだ。

その隙に、ほかのサルが調理室に排煙用の細い窓から入っておやつ用バナナを

盗んだ。

(バナナが好物はホントだった。バナナだけでよかった。調理の栄養士さんたちが無事でホッとした)

                       f:id:kame710:20210407092406j:plain


ーーーーー 

② ゴリラには面子、プライドのようなものがある?

 

「〈類人猿の食物分配

ゴリラは、あえて勝者をつくりません。敗者もなければ、勝者もないんです。…

(しかし、けんかの場合は)仲裁者がいるんですね。…

両方がメンツを保って引き分ける、こういう共存の仕方もあるのです。…

人間は、自分の血縁とは関係なく、自分の利害とも関係なく食物を分配し合います。

こんなことができるのは人間一種のみです。

(理由は)草原という類人猿の生息できない危険な環境へ足を踏み入れたことに関係があります。

仲間たちと広く食物を分配し合わなければ生き延びられなかったと思われるのです。…

 

ゴリラは類人猿でチンパンジーなどと共にサルより人間に近い。

面子(メンツ)、体面、面目のような複雑な感情もある。

(国民に疑われても「知らぬ存ぜぬ」「記憶にございません」「秘書がしたこと」…の大臣、議員、

高級官僚の姿を見るたびに人としての「面子」、「面目」、「プライド」など皆無と思った。

それにまた、少し前のことも覚えていない記憶力でも大臣になれるのだ。彼らのことをこれからは

心底、「ゴリラ以下の人間」だとも思おう)

 

ゴリラも仲間であっても衝突する。

衝突(サルのような「優劣の認知」がないので衝突する)しても引きさがるわけにはいかず

かといって血で血を争う(ヘタをすれば死ぬ)バカな脳のない決着もしない。

そこで、けんかになれば仲裁者がはいる。

「まあまぁ…」というわけだ。

 

こういうことを知って、私はスポーツの審判を連想した。

仲裁と審判は違うけれど、大怪我や死に至るまで闘いを続けるバカを

止めさせる点で同じである。

(スポーツの発生は競争の平和的解決というような説を聞いたことあるけれど、ゴリラ社会の仲裁者は

勝敗を引き分けに持ちこむ立派な審判者でもある。人間社会も見習うとよい)

 

生き延びるうえで仕方なかったといっても、人間だけが「自分の血縁とは関係なく

自分の利害とも関係なく」食物を分配し合うとのこと。

(類人猿から人間として一歩を踏みはじめたころはそうだった。それが「原点」といえる。

「炊きだし」や「子ども食堂」は人間の原点だろう)

 

 

                       f:id:kame710:20171029114701j:plain

                       ちりとてちん

 

<