カメキチの目

2006年7月10日が運命の分かれ道、障害者に、同時に胃ガンで胃全摘出、なおかつしぶとく生きています

2021.4.23 救い(前)‐ なぜ、人を殺しては…?

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「救いがある」とか「…ない」と言う。

(いまは「災害救助」の話は含めません

 

テレビドラマなどで、ある話が不幸な結末で終わっても、

結末に一条の光が感じられるとき、希望を少しでも感じるとき、

「救いがある」と思う。

たまに絶望的な結末があり、「救いがない」と感じる。

 

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『救いとは何か』  山折哲雄 森岡正博  は、とても深く考えさせる本だった

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                         (グーグル画像より)
年寄りの宗教学者の山折さんと、気鋭の哲学者の森岡さんの対談本。

魂や祈りといった人間の心、内面を強くだいじにされる山折さん。

そういうもののたいせつさはわかるものの、ご自身は信仰を持てない

あくまで論理にこだわり、救いは宗教、信仰によらなくても哲学的に見いだせる

と語森岡さん。

 

親子ほどの歳の差の、お二人の熱のこもった話がおもしろかった。

 

さまざまな観点から述べられていましたが、「死」から見つめた話が強く心に残ったので、

前・後の2回に分けて書きます)

 

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初めは、殺人事件を起こしたある少年の言葉に出てくる

「なぜ、人を殺してはならないか?」という問い。

 

【引用】

ある少年の問い

(その根源的な問いに、正面からまともに答えようとしない現代社会。

代わりに「命を大切にしよう」という言葉でごまかそうとする、とお二人は言う)

〈山折〉「人を殺すな」という黄金律を言うことができなくなった現代社会が、一種の言い換えとして

「命を大切にしよう」という弱い言葉を発明したんだな、と思った。…

誰も自信をもって「人を殺すな」とは言えなくなってしまったけれども、

「命を大切にしよう」であれば誰でも言える。…  

「殺してはならない」ということは、神とか仏とかいった、人間を超越する「法」があって、

はじめて言うことができた。…  

 

少年の問いにどう答えるか 

森岡きれいごとと言われようと…(私は)言葉と論理でもって説得する…

〈山折〉けれども森岡も…僕(山折)も時と場合によっては人を殺してしまうかもしれない…

いつ何時、狂気や憎しみに駆られて人を殺めてしまわないとも限らない…

(続けて山折さんは北原白秋の「金魚」を挙げる)

母さん、母さん、どこへ行た。紅い金魚と遊びませう。

 母さん、帰らぬ、さびしいな。

 金魚を一匹突き殺す。」…

 

(注:黒字の①~③()〈〉→字、字はこちらでしました)

 

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ある少年の問い

「ある少年の問い」とは、正確には「現代日本に生きる少年の問い」だ。

おそらく、昔の少年は「なぜ、人を殺してはならないか?」と問うたことは

なかっただろう。

(私自身はなかったし、周りでも聞かなかった。神戸A少年の事件で初めて聞いた)

 

山折さんがいわれるように、昔は「人を殺すな」はあまりに自明なこと、

黄金律だったのだ。

理屈を並べ、つべこべ言うことではなかったのだ。

(そのくせ、戦争になると大人は理屈をつけ平気でどんどん人を殺す。

ミャンマーでは、戦争ではなくとも、権力に抵抗するデモ参加者を殺している。

一人ひとりの警官や兵士は何を思い、どういう理屈で自分を納得させ、発砲するのか?

ミャンマーも隣国タイのような敬虔な仏教国だと思うと、「人を殺すな、愛せよ!」という

キリスト教も、イスラムユダヤも、宗教のまったくといってよいほどの戦争への無力を感ずる。

「戦争」は別なのだろうか?》)  

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生きものを殺したら死ぬという事実。生は一回きりという事実。

現代では、どうやらその事実を実感しにくくなっているようだ。

「バーチャル」「リセット」という現代文明が大きな影響を及ぼすところで

育つ子どもたち。

(「死」を感じる体験が身のまわりから遠のいたことと合わせ、「死」の実感がとても軽くなっている

気がする。そういう意味では、子どもたちに、死はとても身近になっている。 

仮想の死と現実の死がごちゃ混ぜになる形で。

死んでも生き返ればいいのだ。

男の子の好きな「戦闘もの」ゲームなんか、「ゲーム」だからいくらでも死に、そして再生。

生き返らなくては「ゲーム」にならない)

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科学技術の目的は、突きつめれば人類みんなの幸福であるけれど、

人と人との間は、「格差」という形で開いていくばかり。

(「幸福」は感じるものだから個人的なものだといえるけれど、そう言い切ってはオシマイよ!)

私たちは、「幸福」とは「欲望(という得体のしれない我欲のようなもの)の実現」

勘ちがいしている気がする。

科学技術の限りなき発展による人類の限りなき「欲望」の暴走。

 

これほど物質的に豊かな現代社会になっても、「餓死」という信じられないような

不幸が起き、ニュースになる。 

裏返せば、(多少はご本人の遵法精神もあろうが)自分は餓死しても、

「他人さまのものは盗んではならない」という道徳・倫理を守るという態度を

貫きとおす人、個人がいるという事実の存在。

そして、そういう立派(?)な人を見捨て、見殺しにする世の中、社会が

まぎれもなく現代社会であることも(あらためて)思った。

 

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年の問いにどう答えるか 

白秋の詩が心の底にズシリ、重く響いた。

母を慕うあまりのやるせなさを殺意を持っ金魚を「突き殺す」という形で

やつ当たりする。

 

金魚は、まかり間違えば人間にもなる。

「おもしろくない…」「誰も自分に振りむいてくれない…」など、社会へ

自分勝手な怒りをぶつけることも「やつ当たり」に他ならない。

たまたま出会った人にナイフを振りまわす通り魔。

見ず知らずの人を電車のホームから押し、線路に突き落とす。

秋葉原を楽しんでいただけの人たちに車で突っこむ…。

 

やり切れない感情、気もちは誰にも起きる。

僕も時と場合によっては人を殺してしまうかもしれない…

いつ何時、狂気や憎しみに駆られて人を殺めてしまわないとも限らない…

 

人間は弱さを自覚するしかないのだろう。

黄金律をいわれる山折さんに強く同意した。

 

 

 

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                               ちりとてちん

 

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