カメキチの目

2006年7月10日が運命の分かれ道、障害者に、同時に胃ガンで胃全摘出、なおかつしぶとく生きています

2021.4.27 救い(後)‐ 救いとしての死

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死を思うとき、いちばん残念なのだいじな人と永遠に別れなければならないこと

だが、死は逃れようのないことだとあきらめ覚悟したとき、

①できれば(たとえ死は瞬時のことでも)痛くないように

(死後の世界は信じていないが)もしあれば、「地獄」に堕ちず、

「ヘブン」「極楽浄土」に行かれますように

③遺された者はみんな幸せでありますように

と願う。

(③以後も考えれば思いつきますが、この辺で)

 

①②③は希望なのだけれど、叶えられると想うと生きることの救いになる。

で、実現すると信じよう!

 

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「死ぬのはイヤ」だが、だからといって永遠に生き続けたいとは

多くの人は望まないと思う。

(「不死」を願うとはいっても、ほとんどの人が現実的(可能性を信じて)に願うのは90、100、

せいぜい100余りまでくらい、ほどほどより少し上くらいだと思う)

 

最先端の医学、医療技術は、多くの病気見つけだし、治してくれる。

病気の診断と治療だけではなく、「お金さえあれば」)老いを延ばし隠してくれる。

(昔なら病気とはいえなくとも、最近は精細きわまる検査によって「病気」にされてしまう。

喜んでいいのかどうか複雑…)

 

 

従来のヒト一般から、最先端は個人差にメスを入れる。

個人ごとの違いを遺伝子やDNAレベルにまでさかのぼるらしい。

(個人をターゲットにした医療は、いまは「お金さえあれば」の条件つきだけど、

将来、技術はさらに進化を遂げるだけでなく平準化し、誰でも可能になりますように!

人類の未来に「救い」の光明を見いだしたい)

 

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森岡さんが、高度に発達した技術の現代文明のもとでの「救い」となる死を、

ドイツの哲学者ハンナ・ヨナスの考え方を紹介されていた。

 

(引用文はあくまでも森岡さんの解釈です)

【引用】

死は

不死を願う人間にとって死の訪れは不幸でしかないけれども、

テクノロジーの力によって頼って長生きしたいという願う私のこの欲望

‐自己肯定できないそれ‐を無慈悲にも打ち砕いてくれるという意味で

それは希望であり、恩寵である…

 

人間だれしも願う長生き。

技術、テクノロジーの限りのない進歩、発展はそれを可能にしてくれるけれど、

いくら長生きできるようになったとしても、「死」という絶対的事実の前では

相対的なものに過ぎない。

誰でも早かれ遅かれ死ぬという事実は、願いを無慈悲、無残にも打ち砕いてくれる

 

たとえ長生きできてもいつか死ぬ。終わる。

「The End」は希望、恩寵なのだ。

つまり「救い」でもあるわけ。

 

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それで思った。

このブログでもよく書いている「人類の絶滅」という危惧の話。

「危惧」というのはそうなって欲しくないという気もちがあってのことだけれど

たとえそうなっても「地球のためには」「他の生きものたちには」よいと感じる

ことは「救い」だと、ちょっとややこしいことを思った。

 

 

 

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                            ちりとてちん

 

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