最後③のきょうは、本来的な「働く」。すなわち、「生きる」。
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③ 働くことの復権
【引用】
「〈働くことの復権〉
(秋山憲治の言葉)「いろいろな場面で、私たちは身体を動かして社会的に意味のある活動をしている
その活動は、場合によっては支払われる労働になり、場合によっては支払われないものになります。
家事労働のようなシャドーワークが実は社会的にはたくさんの意味を持っている」
主体的な選択を可能にするためには、さまざまな社会的な仕組みを工夫し実現していくことが必要です
それは経済学で説明できるというよりは、人びとが自分たちの住む世界を選択する問題ですから、
政治の問題です。…
〈社会的な絆〉
報酬のない働き方も認めるような方向に、私たちは社会のあり方を変えていく必要があります。…
〈過剰消費と過剰労働〉
過剰消費と過剰労働とは不可分の関係にあるのです。
私たちの毎日の生活のなかでも、ゆっくり休もうとすれば、それほどお金はいらないはずです。…
〈選択するのは私たち〉
私たち自身がそのサービスの生産に参加することで、金によって買うのではなく、自らそうした必要を
満たす供給を作り出すような仕組みが工夫される必要があります。…
(注:〈〉、(黒字)の追加、太字はこちらでしました)
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「働くことの復権」
単純にすばらしいことだと思う。
(「復権」とは、もちろん誰もが好きな仕事につけるということではない。「好き」「嫌い」は変わる。
初めのうちは嫌いだと思っていても続けているうちに、好きとまではいかなくても嫌いではなくなる。
好きになるかもしれない。
その仕事で働いていることが「いいなぁ」と感じられることが「復権」だろうか)
若いころ、ちょっとだけ「マルクス経済学」をかじったことがある。
(生来の、難しいことにも根気強く取りくむという姿勢のない私は、「だいたいわかった!」と
少し学んだだけでやめた)
マルクスは労働者が重んじられ、報われる世の中が必ず訪れるにちがいないと、
資本主義経済の仕組みや矛盾を明らかにし、レーニンがロシア革命で初めての
社会主義国ソビエト連邦を樹立、その波を受けて東欧諸国、中国や北朝鮮も誕生。
(マルクスが望んだのは、「労働者が重んじられ、報われる」はずという理想の社会だった。
が、「はず」でなかった。で、ソ連も東欧もつぶれた)
「働く」ことを、「いま私たちが生きている資本主義社会において」という条件を
つけた狭い意味に限ると、=賃労働=収入(お金)を得ることになるけれども、
「働く」ことの本質は、(冒頭に書いたように)=「生きる」だと思う。
誰もが個性と能力をもった存在として理解、尊重され、それに応じて生きる、
働く。
「人びとが自分たちの住む世界を選択する問題ですから、政治の問題」
という著者の言葉に強く同感した。
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〈個人的なこと〉
学校では、子どもは(義務)教育、おとなは仕事が義務と聞かされていた。
そのころ、子どもなりに世の中を見るとたしかにそうなので、
自分もおとなになれば仕事をしなければならないものだと思って育った。
学校を出て、就きたい職業、してみたい仕事はいちおうあったが、当時の世の中が
「不況」ということもあり、何より能力が足りなくて、すぐ社会に受け入れられる
というわけにはいかなかった。
(食ってゆくためには何でもやるという気もちだったので悲観はしなかった)
いろいろあって最終的にウンよく希望に近い仕事に出あい、その職場をつらぬき
通せたけれど、ウン悪く思わぬ事故に遭遇、定年ちょっと前に辞めることに
なった。
が、どちらも「たまたま」偶然の賜物だったとつくづく感じる。
(偶然「死んだ」ということになれば何もかも無くなっているのでこうして「言う」こともできない。
だから偶然の「賜物」だ《仕事に限らずどんなことでもその「出あい」「縁」を生きる他ない》)
ところで、
いくら好きな子ども相手の仕事をしてきたといっても、退職は大喜びで迎えた。
「バンザイ!」
(明日からは、時間がきたら出勤…規律にしばられた生活をしなくてすむのだ)
「時間」をはじめとする規律にしばられた生活をしなくてすむようになって、
ブログを始めた。
(お金にはならないだけの、私の新たな「働き」「仕事」。
でも、ちゃんと自分なりの「規律」をつくっています)