3回目、最後です。
③ 「老い」の意味
老いの盛りにある私のような者だけでなく、若い人に読まれてほしい。
(と、強く思った)
終りのころ、「人間にとっての老い」ということで次の一文があった。
【引用】「〈人間にとっての老い〉
生命体に宿っている死というシステムが存在する意味は一体何なのでしょうか。
科学的には、「新たな遺伝子として生命を更新するためにある」と言えるでしょう。
哲学的には、「個人としてのアイデンティティを確立するためにある」と言えるかと思います。
「死」の存在を知ることによって、人間は宇宙という「全」のなかで「個」としての己を認識できる
ようになっているにちがいありません。
そこで生まれるアイデンティティを追求し、表現してゆく過程が”老い“ということではないでしょうか
…
遺伝子に支配された細胞死による寿命という宿命に、同時に個としての自由が生かされているのです。
…
「死」は本質的には新たな生命体の「生」のためにある、ということを考えると、
一見、死←→生と相反するもののように見えても、実は同じものなのです。
遺伝子の表現のちがいでしかありません。両者は共時性を持って作動しているのです。
…
人間のたった一度の「生」は、「死」によって無に帰するのです。…
ただしかし、死者は残された人々の記憶のなかに生き続けるものです。…
未来へと遺し伝えられるのです。それを確実なものとしてくれるのが「老い」の時間だと思います。
そこでは、自分のためではなく後の世代のために奉仕するという心の有りようが大切になります。
…
すべては未完のままおわる…未完であってもそのアイデンティティはそこで完結するのです。」
(注:「」〈〉太字はこちらでしました)
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どれも深くうなずかされたが、
「ただしかし、死者は残された人々の記憶のなかに生き続けるもの」
にはハッとした。
「老い」はいま現在「進行中」で実感しているけれど、「死」はまだ実感がない。
実感はムリでも、少しでも近づいて感じようとするなら、亡くなった人、できれば
親など自分の人生で長く重い関わりのあった人を思いだすのがいちばんいいと思う
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最後のさいご、「あとがき」の前に述べられていたことがまたとてもよかった。
【引用】「〈偶然と必然〉
出会いの真の意味に気づくのは、長い時間を経てからのことです。そこに何か必然的なものを感じる
こともあるでしょうが、それらすべては、全くの偶然のことと思います。
…
〈老いと精神〉
”一度限りの人生“とよく言いますが、その「有限」であることを本当に意識することは
なかなか難しいことです。…
「死」を前提として今ある「生」を意識することが大切なことだと思います。
そこから遡って「老い」についても、科学的な知識をもとに考えるのがよいでしょう。…
(「老いの哲学」「死の哲学」の必要)それがないと、「生」自身が不明瞭となってしまう。…
ただ生きようという方向のみでは、何のために生きるのかという内容もできなくなってしまいます…」
(注:「」〈〉()太字はこちらでしました)
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「出会いの真の意味に気づくのは、長い時間を経てからのこと…」という一文に
なんども深くうなずいた。
「出会い」は狭い意味でいう「人との出会い」ということだけではなく、自分の
経験したすべての物事についてあてはまるのではなかろうか。
(そういう広い意味では「偶然」そのもので、仏教でいう「縁起」に違いない。
個人が生きることはすべて「一期一会」だと思います)
〈オマケ〉
あとがきに書かれていたことがまたまたたいへん印象にのこりました。
【引用】
「これから命を閉じることを知っている動物の眼を見た経験はないでしょうか。
生と死の双方に眼差しを届けている眼を。
どんな小さな生きものでも、そこには、生きものとしての一回性が強烈に表現されています」
(注:太字はこちらでしました)