終りは、「忘却」(忘れること)と「アイデンティティ(自分であること)」。
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「忘却」
【引用】
「「忘れたこと」は何であったのかを忘れてしまうのだ。
つまり、「忘れたこと」の内容は忘却しているにもかかわらず、「『忘れたこと』を忘れた状態」
であることを感受しているため、一層の〈不安〉に晒されることになる。これこそが「認知症」と
呼ばれる当事者の〈不安〉を形成するのだ。
…
「忘却」とは、言うなれば、私たちが「自分」を保つ上でこの上なく必要な情報処理の装置なのだ。
また「記憶」とは、日々の様々な出来事を「過去」の情報へと変換して飼い慣らしていくための、
これまた必要な情報処理の装置である。
だから、私たちは「忘却」すると同時に、「記憶」していくことで、「自分」という存在を
辛うじて保っているのである。
…
「何を忘れたのかは分からないけど、何かおかしい」という経験こそが、
当事者の存在を宙吊り状態に陥らせるのである。→「帰宅願望」「安息できる場」」
(注:→「」、太字・太字はこちらでしました)
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「記憶」と「忘却」について強く考えさせられた。
「記憶」と「忘却」。
二つをあんばいよく、自分にとってバランスよいように使いこなして、私たちは
生きている。
老いてくると、個人によって多少の差があるとはいえ、脳も他の身体の部分と
同じように生理的に衰える。
「老化現象」のひとつとしてあきらめる。
個人によっていろいろあるように、「認知症」も自然な衰えとして誰もが安心して
なれる世の中にしたい。
(たとえ福祉、認知症対策という社会の法制度という外枠の問題が進んでも、「人間」「生きる」を
どうみるかという、そこで暮らす人々の人間観・人生観が変わっていかなければならないと思う。
しかし、社会で「サステナブル」が強く広く叫ばれるようになってから、「もったいない」、
自然環境を守ろうという意識が高まったように、逆に社会という外枠の変化が個人に反映してくる
だろうか)
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「アイデンティティ」
【引用】
「〈「私が私であり続けなくてはならない」という規範〉
このような同一性規範が強固な現代社会では、親密な関係であればあるほど、「あなたはこうだった/
こうしたはずだ」という周囲の求めも強くなる。
逆に言えば、「あなたはこうだった/こうしたはずだ」と「私はこうだった/こうしたはずだ」という
縛りの中で…日々の日常生活を営んでいるのである。…
「私は私であり続けなくてはならない」という規範を揺るがすような状況では、
本人も周囲も様々な戸惑いと混乱を感じる。
…
「私は私であり続けなくてはならない」ことが困難になるということは、別様な私として生きていく
ことであるにもかかわらず、かつてのその人でないことが、…「もう何も分からなくなってしまった」
といった具合に不当に否定的な評価が下されることになってしまうのだ。…
「認知症高齢者」は、一方では他者からの、他者へのまなざしに対して敏感であり、他方では複数の
私を束ねている何かを失っていく事態の只中を生きているのだ。
人間は、複数の私を生きており、それゆえ私は複数的・多元的であるのだが、この複数的・多元的な
私を通約する何かによってこそ「私は私であり続けている」といった感覚を感受している。…
複数の私を同一化することによって、私は一定の安定と強度を備えているのである
→アイデンティティ(自己同一性)
…
自己の成り立ちのメカニズムから解釈すれば、「認知症高齢者」とは、自らを同一化する何かを
失いつつあると同時に、他者による無数のまなざしに晒されていることになる。…
無数のまなざしに晒された自己のしんどさとその不安たるや想像を絶するであろう。」
(注:〈〉・「」・→…、太字・太字こちらでしました)
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ここもとても強く考えさせられた。
「アイデンティティ」とは、簡単にいえば「自分は自分」ということだが、ここで
自分というのは一つではない、ことを痛感した。
自分を自分たらしめているものは多種多様なのだ。
(人はみな自分自身が、地球に生きている生物のような存在みたい)
「認知症」になって、「私は私であり続けなくてはならない」ことが困難になって
「もう何も分からなくなってしまった」としても(そのように他人の目には見えても)
別様な私として生きていくことになったと理解され、受け入れられる社会になって
ほしい。
人間は、複数の私を生きており、それゆえ私は複数的・多元的であるのだ。
複数の私を同一化することによって、私は一定の安定と強度を備えているわけだ。
私は障害者になってから、なる前「あれもできた、これもできた」を、なった後
「あれもできない、これもできない」と比較し、ガクンとしたこともあった。
けれど(「いまはしてません」と自信をもっては言えない)、時間的には重ならなくても
心では「できた自分」と「できなくなった自分」、どっちも生きている気がする。
複数の私を同一化している気がするのだ。