久しぶりに内田樹さんの本を読んだ。
『日本の覚醒のために 内田樹講演集』という。
「覚醒」という言葉は使いたくなかったが、現在の日本、とくに政治と
(それを支える)メディアの「劣化」にはガマンならないのであえて使ったという
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私が内田さんに傾倒するのは、この人の考えかた、発想が、そのものごとにとって
もっともたいせつにしなければならないことは何か?と気づかされることだ。
ものごとの「本質」みたいなものに目を向けることのたいせつさ。
(内田さんは達人級の合気道の先生でもあり、養老さんが解剖を専門の仕事とされ「身体」からの
発想をだいじにされるのとよく似ている)
本からの話題、①アメリカの言いなり、②寺を見なおす、③コミュニケーション
④呪いの四つにしぼり、次回から書きます。その前に、
前に読んだ本『内田樹による内田樹』(多くの著作のうち自選した数冊を紹介)
のなかの『先生は偉い』で「本質」をとらえることのたいせつさを痛感させられた
ところを紹介したいと思います。
(以下、過去記事に重なるところが多いですが、ご容赦ください)
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(内田さんは自分が本やブログなどあっちこっちで述べたものは自由に使っていいと、《どこかで》
おっしゃっていたので、以下、引用は青字にしますが、注意書きはしません)
『先生は偉い』より:
「結婚がそうです。運命の赤い糸で結ばれた理想的な配偶者に巡り会って、お互いに尊敬し合い、
激しく愛し合っていなければ、結婚してはいけないというような高いハードルを設定していたら、
人類はとっくの昔に死滅していたでしょう。親族の形成は人類の存続に不可欠の営みです。
だとすれば、子どもたちを育てるときには「こういう人じゃなくちゃ嫌だ」というような選り好み
させないで、「誰と結婚しても、そこそこ幸せになれる」ような度量の大きさと適応力を涵養する
ことが人類学的には優先する。
真に重要な社会制度は「誰でもできるように」設計されています」
この本では、引用の「結婚」の前に「教育」・「学校の先生」のことが
述べられている。
学校教育において本質的にたいせつなことは、教師が知識において子どもたちより
多い、優れているということではなく(真の教育目的を、人間として生きていく力を育てる
ことと考えるならば)大人は誰でも子どもより先に生まれ、人生の先輩として現に
生きているのだから、大人なら誰だって教師になれるといわれる。
(逆に言うと、教育の内容は誰でも教えられることがいちばんたいせつ、ということ)
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この線で、結婚もそうだと述べられる。
■ 「結婚」においてもっともたいせつにしなければならないことは、家族をもち
(家庭をつくり)子々孫々と人類がずっと長く続くこと。
(「運命の赤い糸」で結ばれた関係とか「激しく愛し合って」は二の次、本質ではない。
そういうのは「恋愛」という。ないよりはあった方がいいかもしれないけれど、恋は人を盲目にする
ともいう。「ああロミオ、…」があってもいいかもしれないけど、そんなのなくて全然かまわない)
■ 昔からの「お見合い」というのは、結婚の本質にはとても適った習慣、
しきたり、よき伝統だったのではなかろうか。
(そもそも「お見合い」は、親戚も含めて家族、地域や勤め先などの生活社会とのつながりがなくては
ならない《そこからの評判、つてですすめられるのだから信頼できる話、情報だと信じてよい》。
ところが現代社会は、人と人の深いつながりが昔ほどではなくなった。
一方では、若い二人の出あいはIT技術の飛躍的な進展により「出会い系サイト」などの登場で圧倒的に
増え、遊び《犯罪事件も発生》は増えても、「結婚」という生活にゴールするのはどれほどだろう?
他方では、「お見合い」の代わりに「結婚相談所」という商売が繁盛し《ブログでも「婚活」宣伝の
何と多いこと)、「結婚サギ」も起きてドラマにもなっている)
■ 現代は結婚する若者が異常に減り、少子化「問題」が起きている。
背景には、真面目に働けども収入が増えない、たりない。将来が不安。結婚しても
家族を養えそうにない、という社会の問題がれっきとしてある。
結婚がむずかしくなっているのは個人の問題ではなく、多分に社会の問題なのだ
(「少子問題」は国が本気を出せば解決できる。子どもを産み、育てやすい社会にすればいい。
結婚しやすく、産みやすく、育てやすい環境を社会的に整えればすむ。
個人の生き方として、結婚せず、子どもを望まない選択ができるようになったこと自体はすばらしい。
が、
「結婚」という個人の問題にとって社会、国家はどうでもいいかもしれないけれど、また社会、国家に
とってもどうでもいいだろうけれど、結婚したいカップルがしたくてもできないのは当人たちにとって
人生の「大問題」)