白川静さんの漢字・甲骨文字研究は私のような者でもどこかで聞いたことがある。
(これは2011年、「私が白川先生から学んだこと」というテーマで講演されたもの)
強く感じた「呪い」のことだけ書きます。
(グーグル画像より)
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内田さんの本には「呪い」という言葉がよく出てくる。
(本の題名になっているものもあるくらい)
なんでそんなに「呪い」なのか?
(そのことは述べられていなかったけれど、尊敬する白川さんの影響が大きいのだろうと思った)
白川さんは甲骨文字の研究で、漢字をつくりあげる中でこめた古代中国の人の
「呪い」(といえば「おどろおどろしい」ですが、広く「思い」)を深く感じた。
(「言葉」とはちがい、文字は目に焼きつき、残る。言葉よりずっと重く心にとどくので、
「呪い」をふくめてさまざまな気もちや思いをこめて漢字はつくられたという)
〈世界は呪いに満ちていた〉
現代社会は、未開の交感呪術から切り離された、合理的で透明なロジックの上に存立していると…
信じていますけれども、それは違います。…
呪いも祝福も活発に機能している。
そのことを白川先生は深く確信されていたのだと僕は思います。…
(内田さんは大学生のころ、アメリカ空母にゲバ棒やヘルメットで立ち向かおうとする学生に、
私は「これをどこかで見たことがある」、既視感を感じたという。
その既視感とは、《時代背景はまるで異なりますが》黒船到来のときの甲冑を着て集まった武士の姿。
学生と武士。立ちむかう相手はともに巨大。闘うすべとしてはゲバ棒・ヘルメットと甲冑。
そのときの彼らには、《共通して》ほかに武器はなく、あるのは「呪い」だけ)
われわれ現代人の中でも呪術的思考は活発に働いている。
表向きは政治活動であったり、経済活動であったり、芸術表現であったり、そのつどさまざまな意匠を
まとって登場してくる…、太古的な呪術的思考をまとわりつかせているものはいくらでもあります。…
存在しないもの、呪詛や祝福が縦横に世界を飛び交い、神霊や死霊が地に満ちているような、
そういう世界がかつてあり、今もあり続けている。
(著者は、それが実感できるようになってから人間のふるまいの多くが理解できるようになったと
述べられる。
「呪い」というとマイナス《負の》方向への「祈り」となってしまうけれど、プラス《正》もふくめ、
内田さんがいうように「祈り」「願い」の一つとすれば、「呪詛や祝福」は「縦横に世界を飛び交」って
いることが実感できる。
各地の神社仏閣での参拝や合掌、新築にあたって執りおこなわれるお祓いは「祈り」。
同じように各地でみかける忠魂碑、受難碑などは「鎮魂」。
「呪詛」も「祝福」も挙げればきりがないくらい )
実際に、人間の社会的活動のほとんどすべては幻想によって駆動されています。
その点では現代社会も古代社会と変わりません。
現に、ネット上では日々すさまじい量の「呪詛」が飛び交っています。
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ちなみに「呪い」とはウィキペディアではこうありました。
【引用】
呪い(のろい)は、人または霊が、物理的手段によらず精神的あるいは霊的な手段で、
悪意をもって他の人や社会全般に対し災厄や不幸をもたらせしめようとする行為をいう
(ちなみに私は人から「呪い」をかけられるようなことはしていませんが、呪われるほどイヤがられる
ようなことをすれば《復讐という直接的な形でなくとも》必ず自分にはね返ってくると信じる、
だから、しないだけ。
でもそれは人としての正しい道に従う《道徳・倫理〉というよりか、他人をイヤな気もちにさせたら
自分もイヤになるからです。
《といっても、ただ「故意」にはしなかっただけ。「過失」なら無数に犯したはず》)
「呪い」は個人的には無縁であったし、それにそんなの古くさい、非科学的と
(雨ごいや厄よけ、病の治癒などシャーマンが活躍する《した》社会なら別だと)真面目に
考えてみたことがなかった。
しかし、この本を読み、自分の大まちがいに気づき、「呪い」を広くとらえたら
社会にとっても自分にとっても「ふつう」のことのように溢れていた。
(私はトランプ、安倍・麻生のような政治家、佐川のような官僚を「怨念」くらい猛烈に呪っていた。
「保育園落ちた日本死ね」という言葉が数年前取りざたされたけれど、「保育園落ちた日本」の部分、
かつてに彼らにかえて呪った。いまも続けている)
〈オマケ〉
子どものころ、『番町皿屋敷』という怪談物語の映画をみた。
(グーグル画像より)
ただ怖さしかなかった。みてからは外にあった便所に夜は一人でいけなくなるほどだった。
しかし、大人になってからその映画のことを思うと、怖くはない。
刀で斬られて井戸に投げ捨てられたお菊さんのような弱き者(ネコなどの生きものも)にとって
救われる道は、「呪い」が行きつくところまで行きついて化け「幽霊」になるか、「化け〇〇」なり
(バーチャル化して)リアルの相手を懲らしめるしかなかったんだと思うようになった。
弱い者にとっては「祈り」とともに、「呪い」も生きるためにも必要なのだと。
(そんなこと思っていたら、サスペンスドラマで愛する人が理不尽きわまる暴行などによって殺され、
その加害者を復讐したい、被害者の仇をとりたい一念で生きてきたという「犯人」がよく出るけれど、
その一念があったからこそ彼《彼女》はそこまで生きてこられた、という意味で「生きがい」といえる
ものではないかとの連想がおきた)