カメキチの目

2006年7月10日が運命の分かれ道、障害者に、同時に胃ガンで胃全摘出、なおかつしぶとく生きています

2021.8.31 幸福は、「になる」のでなく「である」

かたそうな書名ですが、全然そんなことなく、すごく読みやすかった。

(著者がカルチャーセンターで講義されたもの)

                              

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『今ここを生きる勇気‐老・病・死と向き合うための哲学講義』  岸見一郎

 

 

日常のなかでは生活に追われて気がつきにくいいわれてみて、「あーぁ!」

納得することが書かれていました。

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岸見さんはプラトンを専門とする哲学者ですが、とくにソクラテスが好きです。

ソクラテスの「無知の自覚」(自分は無知であると自覚していること)座右の銘

しているくらい、謙虚な人。

(トランプ・安倍・麻生《私には「傲慢」の象徴》と真反対)

 

本には三木清の言葉がよく出てきました。

三木清も謙虚な人だったのだろう。

 

著者は哲学者であるとともにアドラーの心理学にも詳しい。

(哲学専攻の動機と《哲学者になってから勉強した》アドラーの心理学が通じるものがあるらしい。

 

「心理学」はフロイドやユングがよくいわれますが、岸見さんにとりだいじなのは「無意識」ではなく、

これからのこと」、つまり未来をつくりだすのに欠かせない「目的」《こうしようとする意思》を

重んじるアドラーでないといけない。

 

私は「無意識」そのものは心の深層《探ろうとしなければ自覚できない》につながるたいせつなものと

思いますが、もしも自分がカウンセリングを受けるようなことがあり、「あなたの心には無意識のうち

〇〇があるので△△なんです」と分析結果を告げられても、すなおに「はいそうですか」とは言わない

《よく「心のケア」といわれるけれど、それで救われる人もいるに違いないだろうけれど、正真正銘の

ヒネクレ者の私は「他人の心のなにがわかるというのか。カウンセリングごときでわかってたまるか」

と言いそう》

私も、だいじなことは「これからのこと」「これからどうしたいのか」ということだと思っている

 

以下、強く印象に残った二つのことを書きます。

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① 第2講(全部で6講義《6日》ありました)

「どうすれば幸福になれるのか」というテーマで

幸福と幸福感は違う」ということが述べられていた。

 

幸福は存在である

幸福に「なる」のではなく幸福で「ある」)

 

幸福は各人においてオリジナルである

三木清「幸福」を「成功」と対照させ、幸福は成功のように「一般的なもの」ではないからという

つまり、誰にも当てはまるものではないということ。

 

この部分で著者は三木清の引用をかり、おもしろいことを述べておられた。

【引用】「成功を目指す人は「個人」であってはいけないと思い、就職活動の時には、

誰もが同じスーツに身を固め、面接に臨む。…自分を「人材」として売り込もうとする

 

幸福は人格的なものである

幸福は幸運ではないという。幸運なことがあったので幸福になるのではないという。

逆に不運なことがあった時に幸福でなくなるわけではないという。

そういうふうに何かによって幸福が決まるわけではない。

 

個人的に強く実感する。私は障害者になるという不運に遭ったが不幸とは感じていない。

「ホントに? ムリして…」といわれそうですが、ホントでもウソでもいい。

ホントかウソか、そんなことは問題ではないのです

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② 第3講

「対人関係が悩みのすべて」というテーマで

パーソン論」というものが述べられていた。

 

人が人であるためには、何の条件もいらない

【引用】

胎児が生物として人かどうかは関係ありません。生物的には人ではないとしても、

母親が自分の胎内に子どもが宿っていると思った時に、その子どもは人なのです。…

死の患者さんも、家族にとっては明らかに生きています。…

ういう人を人たらしめるのは、人と人が結びついているということです。…

その亡くなった人にも自分とのつながりがあって、私がその人を生かしているのだと思っても

間違いありません。人が人であるためには、の条件もいらない

 

(注:太字太字、→はこちらでしました)

 

次に(「パーソン論」に必須らしい)課題の分離という概念が述べられていた。

とても強く「共感」した。

【引用】

他の人がどう感じ、どう思っているかということは、相手の課題であって基本的に私の課題では

ありません。これが課題の分離です。…

相手の感じていることや思っていることは、私には理解できないかもしれない…

手探りで相手と協力作業をする中で一致点を見出し、理解に近づいていく。それが「共感」です。

その時に「私だったら」と考えると相手を理解することはできないので、

自分には理解し難くても、相手の立場に身を置くという形で、協力作業をしていくのです

 

(注:太字太字、→はこちらでしました)

 

私は全然しらなかった、「課題の分離」。

とてもすばらしい言葉(概念)、考えかたを知った。

 

ブログを読んでいて、自分にはあまり興味関心がない話題でも、愛読者だからと

「いいね」ボタンを押し、スターマークをつけている。

そのことに、申しわけない、というか疚しい気もちがしていたが、ここを読んで

ちょっと気が楽になった(救われた気もち)

(私は「手探りで相手と協力作業をする中で一致点を見出し、…」という努力はしていない。だから

「共感」とはいえないが、自分には理解し難くても、相手の立場に身を置く」ということはできる

「共感」まで至らなくても「いいね」といってよいのだと思った。

(それでも長くブログをやってきて、「いいね」の安売りのような自分の姿勢に疑問を感じてきた。

ちょっと考えてみなければならない)

ーーーーー 

著者はアドラーの次の言葉でこのカルチャーセンターでの講義を終えた。

 

一般的な人生の意味はない。人生の意味はあなたが自分自身に与えるものだ

 

 

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                            ちりとてちん

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