かたそうな書名ですが、全然そんなことなく、すごく読みやすかった。
(著者がカルチャーセンターで講義されたもの)
『今ここを生きる勇気‐老・病・死と向き合うための哲学講義』 岸見一郎
日常のなかでは生活に追われて気がつきにくい、いわれてみて、「あーぁ!」と
納得することが書かれていました。
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岸見さんはプラトンを専門とする哲学者ですが、とくにソクラテスが好きです。
ソクラテスの「無知の自覚」(自分は無知であると自覚していること)を座右の銘に
しているくらい、謙虚な人。
(トランプ・安倍・麻生《私には「傲慢」の象徴》と真反対)
本には三木清の言葉がよく出てきました。
三木清も謙虚な人だったのだろう。
著者は哲学者であるとともにアドラーの心理学にも詳しい。
(哲学専攻の動機と《哲学者になってから勉強した》アドラーの心理学が通じるものがあるらしい。
「心理学」はフロイドやユングがよくいわれますが、岸見さんにとりだいじなのは「無意識」ではなく、
「これからのこと」、つまり未来をつくりだすのに欠かせない「目的」《こうしようとする意思》を
重んじるアドラーでないといけない。
私は「無意識」そのものは心の深層《探ろうとしなければ自覚できない》につながるたいせつなものと
思いますが、もしも自分がカウンセリングを受けるようなことがあり、「あなたの心には無意識のうち
〇〇があるので△△なんです」と分析結果を告げられても、すなおに「はいそうですか」とは言わない
《よく「心のケア」といわれるけれど、それで救われる人もいるに違いないだろうけれど、正真正銘の
ヒネクレ者の私は「他人の心のなにがわかるというのか。カウンセリングごときでわかってたまるか」
と言いそう》
私も、だいじなことは「これからのこと」「これからどうしたいのか」ということだと思っている)
以下、強く印象に残った二つのことを書きます。
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① 第2講(全部で6講義《6日》ありました)は
「どうすれば幸福になれるのか」というテーマで
「幸福と幸福感は違う」ということが述べられていた。
「幸福は存在である」
(幸福に「なる」のではなく幸福で「ある」)
「幸福は各人においてオリジナルである」
(三木清は「幸福」を「成功」と対照させ、幸福は成功のように「一般的なもの」ではないからという
つまり、誰にも当てはまるものではないということ。
この部分で著者は三木清の引用をかり、おもしろいことを述べておられた。
【引用】「成功を目指す人は「個人」であってはいけないと思い、就職活動の時には、
誰もが同じスーツに身を固め、面接に臨む。…自分を「人材」として売り込もうとする」)
「幸福は人格的なものである」
(幸福は幸運ではないという。幸運なことがあったので幸福になるのではないという。
逆に不運なことがあった時に幸福でなくなるわけではないという。
そういうふうに何かによって幸福が決まるわけではない。
個人的に強く実感する。私は障害者になるという不運に遭ったが不幸とは感じていない。
「ホントに? ムリして…」といわれそうですが、ホントでもウソでもいい。
ホントかウソか、そんなことは問題ではないのです)
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② 第3講
「対人関係が悩みのすべて」というテーマで
「パーソン論」というものが述べられていた。
「人が人であるためには、何の条件もいらない」
【引用】
「胎児が生物として人かどうかは関係ありません。生物的には人ではないとしても、
母親が自分の胎内に子どもが宿っていると思った時に、その子どもは人なのです。…
脳死の患者さんも、家族にとっては明らかに生きています。…
そういう人を人たらしめるのは、人と人が結びついているということです。…
その亡くなった人にも自分とのつながりがあって、私がその人を生かしているのだと思っても
間違いありません。→「人が人であるためには、何の条件もいらない」」
(注:太字太字、→はこちらでしました)
次に(「パーソン論」に必須らしい)「課題の分離」という概念が述べられていた。
とても強く「共感」した。
【引用】
「他の人がどう感じ、どう思っているかということは、相手の課題であって基本的に私の課題では
ありません。これが「課題の分離」です。…
相手の感じていることや思っていることは、私には理解できないかもしれない…
手探りで相手と協力作業をする中で一致点を見出し、理解に近づいていく。それが「共感」です。
その時に「私だったら」と考えると相手を理解することはできないので、
自分には理解し難くても、相手の立場に身を置くという形で、協力作業をしていくのです」
(注:太字太字、→はこちらでしました)
私は全然しらなかった、「課題の分離」。
とてもすばらしい言葉(概念)、考えかたを知った。
ブログを読んでいて、自分にはあまり興味関心がない話題でも、愛読者だからと
「いいね」ボタンを押し、スターマークをつけている。
そのことに、申しわけない、というか疚しい気もちがしていたが、ここを読んで
ちょっと気が楽になった(救われた気もち)。
(私は「手探りで相手と協力作業をする中で一致点を見出し、…」という努力はしていない。だから
「共感」とはいえないが、「自分には理解し難くても、相手の立場に身を置く」ということはできる)
「共感」まで至らなくても「いいね」といってよいのだと思った。
(それでも長くブログをやってきて、「いいね」の安売りのような自分の姿勢に疑問を感じてきた。
ちょっと考えてみなければならない)
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著者はアドラーの次の言葉でこのカルチャーセンターでの講義を終えた。
「一般的な人生の意味はない。人生の意味はあなたが自分自身に与えるものだ」