カメキチの目

2006年7月10日が運命の分かれ道、障害者に、同時に胃ガンで胃全摘出、なおかつしぶとく生きています

2021.11.2 『しあわせ中国 盛世2013年』‐前‐

『幸福な監視国家・中国』で紹介されていた発禁処分を受けた問題の書」、

『しあわせ中国 盛世2013年』  著・陳冠中 

という小説形式の本を読んだ。

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                              (グーグル画像より)

 

前は「幸福」、こんどは「しあわせ」。

『幸福な監視国家・中国』のほうが2019年と新しく、おそらく『しあわせ…』を

マネたのだろう。

 

いずれにしろ、2013年も2019年も中国の人たちは「しあわせ」「幸福」なのだ。

この2年はコロナ禍で、インバウンドを楽しめる人にはちょっと「不幸」かも…

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一党独裁」の政治。

そのことが具体的にはどういうものなのかを、さまざまな人物を登場させ小説風に

ものがたる。ストーリーがあるのでおもしろい。

主人公的な人物は複数ですが、みんな自由や民主主義のたいせつさを知っています(一人は台湾の人で

アメリカにも住んでいたことがある)。

背景は2013年の中国本土。習近平政権になる前ですが一党独裁」の本質は変わらない。

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読みおえて、しばらくはポカンとしていた。

 

というのも、現代の中国社会で生活することがどういうことか?

が、現代の日本という複数の政党が意見をたたかわす「民主主義」国家での

政治の現実しか知らない身には想像がむずかしかったから。

 

おおかたの人々は「しあわせ」だが、主人公たちごく一部のひとたちは、おかしい

息がつまりそう、政治のあり方としてまちがっていると思っている。

「自由」がほしい。

 

客観的には「不自由」なはず。

だけど、心は「自由」ということは可能だと思う。

「自由」であることと「しあわせ」は直接にはつながらない。

「貧乏に負けない」といういい方がある。経済的に貧しくても「徳のある」生き方をする)

 

本はとてもたいせつなことがたくさんいわれていることは確かなのですが、私の能力ではそれらを

わかりやすくまとめて伝えることはできそうにありません。

いつもの通り、いちばん強く感じ思ったこと二つを2回にわけて書きます。

きょうは①(前)です。

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① 人は政治をみないで生きられるけれど、政治は人をたえずみている。

 

私はたまたま、こういう人間としてこの時代の日本という国に生まれ、

生きているけれど、ほかでもあり得た

自分の存在はまったくの偶然であるから、ひょっとして現代の中国に生まれ、生きていたかもしれない。

 

「生まれ」は「偶然」で選びようはない。

しかも戦後の日本だったから「民主主義」の空気をすって育った。

「民主主義」の空気をすって、それは「独裁」よりすばらしいと考えている。

なによりも個人としての自分が尊重され、自分の「選択」が尊ばれる。

実際は「民主主義」といっても形骸化しているものごとが多いにしても。

選べる範囲は少なくても。

「選べる範囲」どころか、そもそも、さまざまな「選択肢」があること自体を知らないにしても。

たとえ選んだようにはうまくいかず、「不幸な」結果になったとしても。

 

選んで生きたい。

選ぶというと「選挙」

一昨日、4年に一度の衆議院選挙があった(世界のほかの国々とくらべて非常に低い投票率)。

たいせつな権利とわかってはいても、現実の政治はむなしいので、そもそも選ぶことをしたくなる。

私も投票にはいったが、気もちは投げやりだ。

その「むなしさ」に権力はつけこむ。

 

【引用】

魯迅が言っていた。『失われた良い地獄』を懐かしむ人がいる、

なぜなら、たとえ地獄でももっと悪い地獄よりは良いから…

しかし偽の天国との間で、人はどのように選択するのだろうか。

なんと言っても偽の天国はやはり良い地獄よりもましだと考える人がほとんどだ。

彼らは初めそれが偽の天国だと知っていた。…

月日が経つに連れ彼らはそれが偽の天国であることさえも忘れてしまい、

逆に偽の天国を弁護して、それは唯一の天国だと言う

 

(注:「」()、青太字赤太字はこっちでしました。以下の引用も同じ)

 

「知の不幸 無知の幸」という言葉、知らないほうがよかった…というような

意味の言葉を思った。

 

子ども時代は、だれでも知ることが楽しく、「知の幸」しかない。

 

若者時代は、まだ子どもの続きだから次からつぎへといろいろなことを知り、

さらに新たな世界がひろがる。

社会についていろいろと考え思い、個人的には「青春の悩み」が起きてくるが、

そういうのもまた新鮮

まだ、「知らないほうがよかった…」とは言わない。

 

しかし、もっと大人へなっていく中でさまざまな経験をつみ、知れば知るほど

イヤになることが出てくる。知らないほうがよかった…」と思いはじめる。

 

が、イヤなものごとでも自分が「知らなかった」なかっただけで、存在しなかった

のではない。

知ってイヤになろうが、不幸な気もちになろうが、事実は事実。

刑事ドラマで、主人公刑事がドラマの最後で解明した「犯罪の事実」を関係者に伝えようとすると

事実が「明らかになってもだれも救われない。だれもしあわせにはならない」知らないほうがよい」

隠そうとする場面を想った。

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日本の大人なら多くの人が聞いた「1989年の天安門事件」という歴史的事実、

できごとが、現代の中国では「なかった」ことにされ、歴史から闇にほうむり

さられている。

「なかった」ことは記録されない。記録にないから子どもはおろか若者たちでさえ

知らない

記録になくても思い出として知っている人々。「あれは悪い夢だったのかな?」と

自分をうたがったり、すすんで健忘症になる。

 

【引用】

現在、(中国では)図書は多彩でバラエティに富み、読み切れるものではない。

しかし(「天安門事件」の)真相は依然として蔽われており、人々はただ自分の読書の趣味を

アレンジでき、自由に選べ、読みたいものを読めると思い込んでいるだけで、実は自分自身がすでに

アレンジされていることを忘れてしまっている。…

なぜなら若者は、学校や伝統的メディアからは言うまでもなく、書物やインターネットからでさえ、

真相をもはや知ることができないからである。…

大多数の人々は歴史、事実、真相について気にもかけず、固執するはずもない

普通の人にとってはまた気にしようもなく、固執する代価もあまりに高い。

ましてや真相は往々にして人々にとり苦痛なものである。

苦しみを捨てて楽しみたいと思わない人がいようか。…

私たちは一般庶民の記憶喪失を責める必要があるだろうか?

一時代前の苦渋を若い世代に強引に記憶させるべきなのか?…

現在、みんなの生活は以前よりもずっと良くなっているじゃないか?

 

 

 

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                          ちりとてちん

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