つづき
② 「民主主義」で14億もの人口と広大な土地を統治できるだろうか?
統治・管理(支配)はできても、個人の人権を尊重できるだろうか?
中国は、ともかく土地が広大で人が多い。「広すぎる、多すぎる」(と私は思う)。
これだけの広さと人数を統治しようとすれば、迅速に政策をきめ、きめたことを実行するには
上意下達の「一党独裁」でないとムリなのだろうか?
ところで、生きものには何でも「適正サイズ」というものがある。
もちろん国は生物ではなく社会だが、中国の規模はどう考えても「適正サイズ」でない気がする。
人間も原点は生きもの。そこから外れている気がする。
あれだけの土地があり大勢の民衆がいれば、個人をたいせつにし、人権を尊重するのはしょせん無理
ではないだろうか?
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「個人をたいせつにし、人権を尊重するのはしょせん無理」であっても、アリのように小さく微力でも
その個人が集まって国があるのだから、国民にそっぽを向かれたら権力者もおしまいだ。
(先日、ニュースで知ったことだが、習近平政権はあまりに大きな教育格差の解消「対策」として
学習塾を規制するらしい。これも大衆の「人気とり」の一種だろうか。多くの貧乏人は子弟を
学習塾へやる余裕なんかないだろう)
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〈おわりに〉
この本は小説だから、中国政府の「一党独裁」政治からくる主人公たちの苦悩と
同時にそれら苦難をこえて生きる個々人のよろこびや輝き、生きかたも描いている
小説は、その特徴として政治や社会、経済、哲学や思想など人文科学の本とは
ちがい、登場人物一人ひとりの人間の全体像が描かれる。
現実の人間は、特定のある時代と社会の中でしか生きられない。その全体像は小説でないと描けない
ということを強く感じた。
もちろん小説はいくらでも想像力を働かされるので、さまざまな世界、ものごとを描ける。
あらためて小説のすばらしさを思った。
「生きる」ということは、一人ひとりの人間が生きるということだから、
その根本から考えると「個人の尊重」こそ、社会で何よりだいじにされ
なければならないことを、とても強く感じた。
私は、観念としての「地球人」「コスモポリタン」は、世界がますます近くなった
現代ではとてもたいせつだけれど、個人として生きているという感覚は、大昔から
それほど変わらないと思う。
この身体サイズでここまで生きてきた動物として人間。
そのことを自覚した人間として生きたい。
〈オマケ〉
「地球人」ということで想った。
本とはあまり関係ないけれど、前に放送されたNHKスペシャル「2030未来への分岐点」飽食の悪夢
~水・食料クライシス~SDGSをみたときのこと。
いっぽうではユニセフがよくキャンペーンしている、顔の4分の1くらいの大きな瞳でうつろに私たちを
見つめる最貧国の栄養失調児、他方ではあくなき欲望でグルメを追いもとめ、胃袋サイズはだいたい
決まっているので食べられなかった分は捨てる。
この見事なアンバランス!
番組は「食糧危機で日本でも暴動?」と物騒なことをいった。
お利口、冷静、政府の広報的なNHKらしくないセンセーショナルなものだった。
こちらは自然のこととはいえ、前々から警告されていたパンデミックはコロナ禍という形でおきたし、
自分で供給できるものは僅かで、外国産のほうが安いとほとんど輸入に頼っている日本の食料事情では
「食糧危機で日本でも暴動」ことはありうると私も思った。
自分が飢え死にするのは仕方なくても、孫子にはぜったいそういう死にかたをさせたくない。