カメキチの目

2006年7月10日が運命の分かれ道、障害者に、同時に胃ガンで胃全摘出、なおかつしぶとく生きています

2021.11.12 生活世界

ブログを読むとき心で挨拶をする。

Aさん、Bさん、Cさん…「おはようございます」「こんにちは」。

そして、きょうもお元気でよかったと安心する。

「読む」といっても「ななめ読み」もする(ゴメンなさい)。

まいにち書かれている方の記事がないと気になる(不定期のかたは「不定期」だから、「何もないのは

元気な証拠」とよいように思える)。

 

ブログをするようになっていちばん感じることは、ひと口でいうと、世界はひろい

ということ。

私は人づきあいが少ないので、他人さまのことはあまり知らない(井の中の蛙」状態)。

ここで初めてしることがいっぱいで、「ヘェー!」の連続だ。

「ここ」といったけれど、そもそもブログをしている人じたいがきわめて少ない。

その上、たまたま自分がやっているはてなブログ」になるとなおさら。

しかし、ここでほとんど奇跡的にとしか表現のしようもない偶然(縁)で出あった読者のかたから

自分のしらない世界を味わさせていただいている。

 

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最近よんだ本渡辺京二著「万象の訪れ」というエッセイ)にあった生活世界」から、

ブログのことを思い、うえのようなことを書いた。

 

渡辺京二さんは、人は生きるなかで二つ世界をもつという。

ひとつは、(どちらかというと)男性が首をつっ込ませがちな政治・経済・外交…、

それに文化などの世界。

もうひとつは、どちらかというと女性的というか、いのちに直接かかわる生活

という世界

 

後者について著者はいう。

【引用】

ふたつの〈世界〉

世界という言葉には、もうひとつの意味がある。

それは、ひとりひとりの人間が生活を営んでゆくときに必ず成立する自分を含む環境のまとまりで、

それは自分にいちばん近い家族から始まる同心円的拡がり、人間も動物も山川草木も、夜空に見える

星辰も、つまり自分を取り巻き、自分と交渉する万物を含む拡がりである。

もちろんそれは、現存するものだけでなく、集積された過去の時間も含まれている。…

 

大切なのは、生活宇宙はひとりひとり違うということである

 

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人生の根本は、生活世界

日々を生きぬく、生活する、暮す、ということが人生。

その中身は、

生活宇宙はひとりひとり違う

 

そのことでフッと、起床したときの自分のすがたと動きを思った

 

起床。

 

平衡障害のせいで体重のおもさを感じる。

おおげさでなく地球の重力」を想像する。「重力」「重さ」というとすぐに思いだす。→

15年まえの事故入院ごの1週間は起きあがれなかった。

寝たままの姿勢だと首はベッドが支えているので、首の筋肉はいらない。

安静がとけベッドで座ってもいい状態になった。ところが首があがらなかった。下を向いたまま…。

そのとき、「これほどにヒトの頭が重いのか!」と思うことはなかった(脳ミソの多寡に関係なく)。

 

視界がブレる「眼振」と二重になって視える「複視」で気もち悪い。

そのままベッドのうえで脚の伸縮だけやり、心で禅語をつぶやき、負けないで」(愛読ブログ

「元・山ガールの松ちゃん」寺ちゃんご夫婦が大好きなZARDの歌)もつぶやいて、きょう一日の

自分をはげます。

 

に、まだベッドに腰かけ、5分以上はそのまま座りつづけボゥーとする(瞑想のつもりだが煩悩が

つよく、雑念にとらわれ、心を空白にはできない)

そのあとやっとトイレ、洗面。つづいて居間の「マイ仏壇」で合掌する。

ひろさちやさんという仏教者が、ある本で「健康・幸福など、おなじ祈るなら、範囲を身内など

親しい人たちにかぎるというケチなことをせず、人類ぜんたい、地球ぜんたいに広げてはどうか。

広げて祈りの効果がうすまるものでもない」と仰せられており、深くうなずいた。

が、私は小さい人間だからやっぱり家族限定になりがちだ。ときどきは、ひろさんの言いぶんを

思いだし広げるときもある)

 

そして、よろけるときは壁に手をつき簡単な掃除をする。

 

 

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                           ちりとてちん

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