カメキチの目

2006年7月10日が運命の分かれ道、障害者に、同時に胃ガンで胃全摘出、なおかつしぶとく生きています

2021.12.19 フッと心にうかぶこと 

前々の記事にちょっと引用した本、

『万象の訪れ わが思索』  渡辺京二・著

は、前記事のような「生の深み」という言葉こそなかったが、万象の訪れ」が

人生を強く感じさせてくれた。

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                              (グーグル画像より)


「万象の訪れ」。いかにも
「生の深み」を感じさせそう。

図書館の本の検索でたまたま見つけた。

 

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序文で「万象の訪れ」ということが述べられていた。

 

【引用】

万象の訪れ

(ある日あるときフッと、著者の心に二つの想念が浮かぶ)このふたつの図象(「図象」とは想念の

一種、イメージのようなもの。二つでも三つでもよい。図象という形をとっていなくても言葉でも、

単なる心象でも、何でもいいの相似理屈をつける必要はない。

何らかの暗示とか啓示を読みとるに及ばない。

関係がないものがただ似ていただけでよい。

われわれの生は、数えきれぬ図象との出逢いで成り立っていて、ある図象が何の根拠もなく他の図象を

想起させることが、われわれが途方もない豊穣のうちに生きている証拠なのだ。

生命のいとなみが絶えずある図象となって露呈し、何の意味があるのか知らないが、

その露呈との出逢いが心に刻印したものが、遠く木魂しあいながら私の心のうちに眠っている。…

そのようなことは、いわゆる人生という物語とは何の関わりもないことなのである

 

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それはある日、雲の重なる空のはたてに塗られた一刷毛の藍でもよいし、

ビル街の谷間にさしこんだ一条の斜光でもよい。

それは束の間に消え、しかも永遠である。

私たちはこういう万象の訪れの中に生きている。それはどういう意味でも「人生」ではありえない。

しかし、私たちの心に深い蔭をおとす「小説」のほんとうのパン種はそこにあるのではなかろうか

 

(注:「」()、青太字赤太字はこっちでしました)

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自己流の解釈であって、著者のいわんとすることと違っているかもしれないけれど

私はつぎのように受けとった。

 

・とつぜん、何かのものごと(ここでは「図象」といっている)を思う(思いだす)こと

ある。

それは人生が豊穣、豊かであるからだ。

自分の人生が豊かである(あった)ということではなく、誰にとっても、どんな生をおくっていても

(きても)、よく人生をみれば、味わえば、誰の人生も、その人にとっては絶対的で、他人のそれと

比べるものではなく、豊かに決まっている。

 

思い(思いだした)ことが関係なさそうな複数のものごとだったとき、それらが

似ていたら似ているだけでよい

何かを暗示している、啓示しているなどと理屈をつける必要はないではないか。

 

そもそも人生は「数えきれぬ図象との出逢いで成り立って」おり、

ある図象が何の根拠もなく他の図象を想起させる」ことが

われわれが途方もない豊穣のうちに生きている証拠」なのだ。

 

生きるとは図象を心に刻みこむ営みであり、それが積みかさなり「万象」となる。

あるとき突然、「万」のなかの一つや二つ…が心に浮かぶ(露呈する)が、ふだんは

眠っている。隠れている。

よく人生物語といわれるけれど、そういう一本の話にあえてまとめる必要はない。

他人がきくぶんには物語はおもしろいけれど。

 

・しかし、「私たちの心に深い蔭をおとす「小説」のほんとうのパン種は

そこにあるのではなかろうか

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あまり小説をよまない私でも「万象の訪れ」ということはわかる気がした。

 

著者・渡辺京二さんは小説家ではない。もの書きで、いわゆる「文化人」。

本はエッセイ集のようなものだが、一生懸命に生きている市井の小さき者、

人々を見つめるとても温かいまなざしを感じた。

 

 

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                           ちりとてちん

 

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