前々の記事にちょっと引用した本、
『万象の訪れ わが思索』 渡辺京二・著
は、前記事のような「生の深み」という言葉こそなかったが、「万象の訪れ」が
人生を強く感じさせてくれた。
(グーグル画像より)
「万象の訪れ」。いかにも「生の深み」を感じさせそう。
図書館の本の検索でたまたま見つけた。
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序文で「万象の訪れ」ということが述べられていた。
【引用】
「万象の訪れ
(ある日あるときフッと、著者の心に二つの想念が浮かぶ)このふたつの図象(「図象」とは想念の
一種、イメージのようなもの。二つでも三つでもよい。図象という形をとっていなくても言葉でも、
単なる心象でも、何でもいい)の相似に理屈をつける必要はない。
何らかの暗示とか啓示を読みとるに及ばない。
関係がないものがただ似ていただけでよい。
われわれの生は、数えきれぬ図象との出逢いで成り立っていて、ある図象が何の根拠もなく他の図象を
想起させることが、われわれが途方もない豊穣のうちに生きている証拠なのだ。
生命のいとなみが絶えずある図象となって露呈し、何の意味があるのか知らないが、
その露呈との出逢いが心に刻印したものが、遠く木魂しあいながら私の心のうちに眠っている。…
そのようなことは、いわゆる人生という物語とは何の関わりもないことなのである」
「それはある日、雲の重なる空のはたてに塗られた一刷毛の藍でもよいし、
ビル街の谷間にさしこんだ一条の斜光でもよい。
それは束の間に消え、しかも永遠である。
私たちはこういう万象の訪れの中に生きている。それはどういう意味でも「人生」ではありえない。
しかし、私たちの心に深い蔭をおとす「小説」のほんとうのパン種はそこにあるのではなかろうか」
(注:「」()、青太字赤太字はこっちでしました)
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自己流の解釈であって、著者のいわんとすることと違っているかもしれないけれど
私はつぎのように受けとった。
・とつぜん、何かのものごと(ここでは「図象」といっている)を思う(思いだす)こと
がある。
それは人生が豊穣、豊かであるからだ。
自分の人生が豊かである(あった)ということではなく、誰にとっても、どんな生をおくっていても
(きても)、よく人生をみれば、味わえば、誰の人生も、その人にとっては絶対的で、他人のそれと
比べるものではなく、豊かに決まっている。
思い(思いだした)ことが関係なさそうな複数のものごとだったとき、それらが
似ていたら似ているだけでよい。
何かを暗示している、啓示しているなどと理屈をつける必要はないではないか。
そもそも人生は「数えきれぬ図象との出逢いで成り立って」おり、
「ある図象が何の根拠もなく他の図象を想起させる」ことが
「われわれが途方もない豊穣のうちに生きている証拠」なのだ。
生きるとは図象を心に刻みこむ営みであり、それが積みかさなり「万象」となる。
あるとき突然、「万」のなかの一つや二つ…が心に浮かぶ(露呈する)が、ふだんは
眠っている。隠れている。
よく人生物語といわれるけれど、そういう一本の話にあえてまとめる必要はない。
他人がきくぶんには物語はおもしろいけれど。
・しかし、「私たちの心に深い蔭をおとす「小説」のほんとうのパン種は
そこにあるのではなかろうか」
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あまり小説をよまない私でも「万象の訪れ」ということはわかる気がした。
著者・渡辺京二さんは小説家ではない。もの書きで、いわゆる「文化人」。
本はエッセイ集のようなものだが、一生懸命に生きている市井の小さき者、
人々を見つめるとても温かいまなざしを感じた。