『正岡子規 人生のことば』 復本一郎
病気による、なみなみならぬ痛み。
その痛みとの壮絶な闘い。
この本は、身体の「痛み」という誰にもわかるシンプルな感覚をとおし、
(といっても、子規の痛みは子規にしかわからなくても、何とか想像はできる)
いまこの瞬間も自分は生きているということを痛感させてくれた。
子規といえばすぐに「柿くへば…」が思いだされる。
著者によると、子規は食べることが大好きで、とくに柿など果物が好物だったとのこと。
読みおえて私は(本には書いてなかったが)身体の痛みがひどいとふつう人は食欲がなくなるのに、
逆に子規は食う楽しみで痛みと闘っていたのだろうかと思った。
(グーグル画像より)
限界ぎりぎりまで痛みにたえる(それを過ぎればおそらく卒倒するしかないような)
子規の壮絶な闘病に、「オマエはきちんと生きているか?」とビシッとたたかれ
叱られている気がした。
子規が、結核性のカリエスで病臥したのは明治29(1896)年、数え30歳のとき。
結核菌が脊椎へ感染した病気を脊椎カリエスといい…なんらかの結核性の病気 (肺結核、腎結核等)
にかかった後発病するもので、わが国では20歳代が好発年齢…
この病気は昭和40年代には、ずいぶん多くみられた…
背骨の痛みといえばカリエスといわれ治療の困難な病気だった…
医学・医療が飛躍的にすすんだ現代では、(なくなったわけではないが)よい薬もあり
子規のときのように苦しまなくてもすむようになっている。
(バイオ面では倫理上「どうかな?」と疑うようなことがあっても)おどろくような科学技術の進歩は
医学の発展、医療技術の向上にどれほど貢献していることだろうか。
最先端の科学技術、ITやコンピュータというと、誰もが日常的に恩恵を受けており目に見えやすい
生活場面への応用であるスマホなどの「便利・快適」がイメージされる。
が、それ以上に医学・医療面へ生かされることにより、生きものとしての生存という根本的なレベルに
おける身体の安寧(最終目標の治癒ということだけではなく、痛みの除去や緩和なども含んで)に向け
役だっている。
15年まえ私は突然、想ってもみなかった大きなケガをし、とき同じくして胃ガンにもなったけれど、
正岡子規のような壮絶な痛みにおそわれることはなく、たすかった。
日本の医学・医療は子規の時代より100年余りたち、大きく進んでいたわけだ。
そのことで一個人の生死について感慨ぶかく思った。
人は、生まれ生きた時代がいつ、社会はどうだったかという「偶然」に規定され、
これもまた個人的な「偶然」が重なって、さまざまな人生をすごす。
自分だけの一個の生をもつ、おくるのだ。
私たちは、その唯一性、それらの「偶然」(「スピリチュアル」に含めてもいいのかも)を
受容(「受容」するしかないのだが)しなければいけないのだろうか。
そう想い考えると、先日の悲惨な出来事、(「京都アニメ事件もそうだったが)自殺を望んだ人に
引きずり巻きこまれ殺された人たちの人生をどう受けとめればいいのだろう。
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以下は、著者が子規による「人生の言葉」とされたもの。
私ならば「こんなに苦しいのならいますぐ死んだほうがマシ」と、ぜったい
音をあげているところだ。
はじめは「小さき望かな」というもの。
引用文の最後の行にある「小さき望かな」から。『墨汁一滴』より)
【引用】子規、数えで35歳のとき
「小さき望かな
人の希望は、初め漠然として大きく、後漸く小さく確実のなるならひなり。
我病牀に於ける希望は初めより極めて小さく、遠く歩行(ある)き得ずともよし、
庭の中だに歩行(ある)き得ば、といひしは四、五年前の事なり。
其後一、二年を経て、遠く歩行(ある)き得ずとも立つ事を得ば嬉しからん、
と思ひしだに余りに小さき望かなと人にも言ひて笑ひしが、
一昨年の夏よりは、立つ事は望まず、座るばかりは病の神も許されたきものぞ、などかこつ(愚痴る)
程になりぬ。
しかも希望の縮小は猶こゝに止(とど)まらず、座る事はともあれ、
せめては一時間なりとも苦痛無く安らかに臥し得ば、如何に嬉しからん、とはきのふ今日の我希望なり。
小さき望かな。最早希望もこの上は小さくなり得ぬ程の極度に迄達したり」
読んで、子規の姿を想像するだけで精いっぱいだった。
「せめては一時間なりとも苦痛無く安らかに臥し得ば、如何に嬉しからん、
とはきのふ今日の我希望なり」
「小さき望かな。最早希望もこの上は小さくなり得ぬ程の極度に迄達したり」
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つぎのは「辛抱ハ後ノタメナリ」。
この言葉は、ある人への子規の書簡にあったもの。
この「辛抱」という、いまではあまり使われることのない道徳的な感じの言葉が
私には強くひびいた。
↓
「辛抱ハ後ノタメナリ」の「後」はいろいろあるが、ふつうは、みな本人にとって
よいことだろう。
いま辛抱すれば後から○○、▢▢、△△のようないいことがある。
ところが、子規には何ひとつよいことはない。
いくら痛みに耐えしのんでも、辛抱しても病は治癒しない。
確実な「後」は、死しかない。
そのことは子規自身がよくわかっている。
「死」のための「辛抱」?
子規の壮絶な病気とのたたかい、みじかい人生を想うとき、自分にとってだいじ、
必要なもののためならば、(たとえ私のような人なみ以下の「辛抱強さ」「根性」しかなく、
ヨロヨロ、ヨレヨレであっても)ビックリ仰天するような力がわき、「辛抱」できる
かもしれない。
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子規が数えの36歳でみじかい生涯を終える1年前にあらわした『仰臥漫録』では
自分の葬式はこのようにしてほしいと書いている。
どういう姿をして、どういう気もちで書いたのだろうか。
【引用】
「空涙(そらなみだ)は無用に候
吾等なくなり候とも、葬式の広告など無用に候。家も町も狭き故、二、三十人もつめかけ候はゞ、
柩の動きもとれまじく候。
何派の葬式をなすとも、柩の前にて弔辞、伝記の類を読み上候事無用に候。
戒名といふもの用ゐ候事無用に候。曾て古人の年表など作り候時、狭き紙面にいろゝ書き並べ候にあたり
戒名といふもの長たらしくて書込に困り申候。戒名などは無くもがなと存候。
自然石の石碑はいやな事に候。
柩の前にて通夜すること無用に候。通夜するとも代りあひて可致(いたすべく)候。
柩の前にて空涙は無用に候。談笑平生の如くあるべく候」