カメキチの目

2006年7月10日が運命の分かれ道、障害者に、同時に胃ガンで胃全摘出、なおかつしぶとく生きています

2022.1.25 この生もまたあってよかった

生きるということは、ひとつ残らず「縁」だと思う

「偶然」「出あい」

この本と「縁」があったと思って読んだ。

いい縁だった。

 

     『思想の落とし穴』  鶴見俊輔 

                    

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                         (グーグル画像より)
鶴見さんのお名前は、ずいぶんと昔から新聞や本で
聞くことがあって、

いつかはご本人の手なる本を読みたかった。

ベトナム戦争反対、憲法九条改悪に反対するなど、職業としての学者であるまえに一人の人間、

一市民、一国民として社会問題への発言が多く、政治への態度表明もよくされていた。

 

前に、「人間はこの世に生まれ出たとき、誰でも名前をつけられる。人の一生に

これほど祝福すべきすばらしいことはないのではないか」(意訳)との鶴見さんの

言葉を何かの本で知り、とても強い感銘を受けた。

子どもの誕生を親が大喜びして名前をつけるという(「あたり前」とはいえばあたり前)ことが

これほど大きな人生の出来事、事実なのだと、私は考えてみたことがまったくなかった

(子どものころ誰かにいわれた言葉「親がくれた名前だからだいじにせんといかんよ」思った)

学校や職場でよばれ、テストの解答用紙や役所の届けで指定用紙に記入するくらいのときくらいしか

意識しなかった名前(○○亀吉だったと、ほんのときどきだが自分の名前を呟いてみる)。

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ふつう「思想」とか「哲学」といえば、とっつきにくい感じがする。

が、そんな感じを人々に思わせてしまうような「思想」や「哲学」はウソ、欺瞞。

高尚そうな言葉で人をダマすエセ学問とまで著者は断言する。

一般庶民は「思想」「哲学」(に限らず学問一般)を仕事にしているわけではないので、専門的知識に

疎いのはあたり前。

「思想」や「哲学」というものは人々が生きる、生活してゆくうえでたいせつな、役にたつような

実際(実践)的なものなければならないと著者はいう。

 

〈オマケの話〉ーーー

そのことで思った。

         

『アイの物語』の読書感想を書いたが、その小説を読んでいるとき、AIやロボットという科学技術だけ

でなく宇宙、歴史、心理、それに現代風俗などさまざまな知識がなかったら、この物語は創れなかった、

書けなかったのでは…と強く感じた。

一編の物語、ストーリーを生みだす、作品を創作するためには、多大な専門的知識をもち、必要におうじ

注ぎこみ、そのうえ、専門的なことであっても誰でもわかるように伝えなければならない。

じつにたいへんな、凡人には気の遠くなるような行為なのだと思った。

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本はいろいろな場で著者が述べたもので、エッセイ集のようになっていますが、

その中の「ハクスリーの日本文化」というのだけ触れます。

ハクスリーは有名なディストピア小説すばらしい新世界』の作者オルダス・ハクスリーのことですが、

いまはディストピアとは関係ありません。

 

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【引用】

ハクスリーの日本文化

ないところから見るまなざし。それは、この生を無限にひきのばして生きようというのではなく、

この生もまたあってよかったではないかと、生の終えた後から言っているようだ

日本の普通の人の習慣の中には、個々のものをゆっくり見て、それに託して考えるところがある。

生花にも・茶の湯にも、俳句にも、それはあらわれている。

抽象概念との一体化ではなく、個々のものの今の個別の状況を一つの抜け穴として、

さらにむこうにぬけてゆく。

そのひとつのモノは、アリスにとって不思議の国に抜け出す穴のようなものだ。

こうした機縁への接触を、ハクスリーは大切にするようになった。

妙好人の信仰)普通人の日常の神秘感がそこに語られている

 

(注:「」、太字太字はこっちでしました)

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〈前半〉

一生懸命な人もそうでない人も、いまは人生まっただ中。

まだ終わってはいない。いまは死んでないけど、いつかは終わる。

 

生の終えた後」に生きていたときのことをふり返ることはできないが

生きているあいだには生の終えた後」の自分、死んだ自分は想像できる。

死んだ自分が言う。

 

「私の人生は、結果として思いどおりにはいかなかった。

そういう意味では『失敗』だったと思う。

しかし、思いどおりにするためにこの生を無限にひきのばしてなんども挑戦、

努力したいとは思わない。

生まれ、生きて、ほんとうによかった。満足まんぞく…」

 

ないところから見るまなざし、なかった「かもしれない」私の人生を

想わせてくれる。

この生もまたあってよかったではないか」としみじみ思う。

 

(この世に生まれ出て、人生を過ごした。そのこと自体が何よりも尊い

思いどおりの人生だった、そうではなかったということには関係ない)

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〈後半〉

日本の普通の人の習慣の中には、個々のものをゆっくり見て、

それに託して考えるところがある」と

外国人としての自分の目をとおしてハクスリーは言う。

著者、鶴見さんはそこに目をとめる。

生花にも・茶の湯にも、俳句にも…抽象概念との一体化ではなく、

個々のものの今の個別の状況を一つの抜け穴として…

これはまさしく「一期一会」。機縁への接触」にほかならない。

 

(縁をだいじにする)

 

 

 

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                         ちりとてちん

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