カメキチの目

2006年7月10日が運命の分かれ道、障害者に、同時に胃ガンで胃全摘出、なおかつしぶとく生きています

2022.1.28 「生まれてこないほうが良かったのか?」

真剣さ、深刻さがたりなかったのか、それとも「なんとかなるだろう」との楽天

まさっていたのか、私は「生まれてこないほうが良かったのか?」と悩んだことは

なかった。

ましてや「死にたい」とも。

 

この歳になっても人生はわからない。

わからないから、いろいろ知りたい。

 

この本を見つけ即、読みたいと思った。

 

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                            (グーグル画像より)
『生まれてこないほうが良かったのか? 生命の哲学へ!』  森岡正博
・著

 

著者大学の哲学の先生。

お気楽なこっちとはちがい、森岡さんは「生まれてこないほうが…」「誕生否定」

という)と、いころ深刻に悩んだこともあるそうだ。

そんな経験も下敷きとなり、「生命哲学」という従来の哲学にとらわれない分野の

イオニア的な研究をされ、なみなみならぬ意欲をもってこの本も書かれていた。

 

紹介したいことはいっぱいあるのですが、最後の章「誕生を肯定すること、生命を哲学すること」で

述べられていた二つのことだけを書きます。

 

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【引用】

①「「私が生まれてくること」は「私が生まれてこなかった」ことに比べて、

「より善く」もないし「より悪く」もない。

「私が生まれてくること」は善悪の評価軸を超えた「善悪の彼岸」であり、

何ものによっても汚されていない「無垢なる生成なのである。

②「いくら「私は生まれてこないほうが良かった」と嘆いたとしても、

私はいまからそれを実現することはできない。その願いは原理的に実現不可能である。

それが実現不可能であることが決定しているのならば、私に残されたことは、

実現不可能なことに選択肢に固着して嘆くのではなく、これから未来に向けて生きていく人生のなかで

「私は生まれてこないほうが良かった」という思いを解体する道筋を探していくことだけである。

 

(注:「」、①②、太字太字はこちらでしました)

 

私は自分を「お気楽」な、ある意味めでたい人間だと思っている。

思春期のころ、人生や自分の存在という哲学めいた悩みを人なみにもったが、

社会の側から戦争などの問題がいやおうなく押しよせ自分のことで深刻になる

ことはなかった。やりたこと、したい仕事などにこだわることもあまりなかった。

そういう希望がなかったわけではなかったが、いまでいう「自己実現」のためにはしたくもない

受験勉強をする、努力するという苦労は「必要な、たいせつな苦労ではない」「人生は短い」などと

自分に言いわけし、イヤなことからは逃げ、楽ばかり選んできた。→要するに、忍耐がたりない、

「根性なし」だった。これが私の「自己実現だったといえる。

人間には(語弊があるかもしれないが)努力が好きな、できる人と、そうではない人がおり、

自分は後者だったと思っている。

努力して変えられるかもしれないが、これも個性の一つとして受けいれたほうがよいと、私の場合、

「究極の自己肯定」をした。

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生まれてきたことは無垢なる生成」だという。

無垢なる生成」。なんという心地よい言葉。

 

引用文のあとのゴチャゴチャは自分のことだが、「無垢なる生成」の果てに

いまの私がつくられ、生存がつづいている。

人は誰も自分だけの世界を、自分だけの人生を生きているのだ。

あたり前の事実が、奇跡的な尊いことに感じられた。

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実現不可能なことに選択肢に固着して嘆くのではなく、これから未来に向けて

生きていく人生のなかで「私は生まれてこないほうが良かった」という思いを

解体する道筋を探していくこと

 

あたり前といえばあまりにあたり前のことがいわれている。

「所与の事実」として私はすでに生まれて、生きているのだから、

「生まれてこないほうが良かった」という実現不可能なことをいわず

前をむいて生きよう、と。

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この本は初めて知るようなことがいっぱい出てきて、私にはともかくすごかった。

 

結論的なことは紹介したとおり、極めてそぼくで単純な、生まれ、生きている限り

死なない限り、生存本能とでもいうべき生きものとしての本質によって生き続ける

よりほかない。

書名に目がとまったときから、「生まれてこないほうが良かった」なんていえる

わけがないと思っていたが、そのとおりの内容だった。

 

森岡さんは(本の副題は「生命哲学へ」とあるように)哲学者らしく、ソクラテスなど

古代ギリシア哲学から古代インド哲学ブッダの宗教哲学、ショーペンハウアー

ニーチェたちの思想、考えまでを細かく説きあかし、さいごに①や②のような

この自明な真実、結論にたどり着いた。

 

自明で当然、わかりきっていると思われ信じられていることを、あえて問い、

疑ってみることのたいせつさを強く感じた。

 

〈オマケ〉-----

「生きる意味」に悩み、躓き、ひどい場合は自殺する人がいる。

①や②のことのほかに、著者は本の最後のさいごで、この「生きる意味」

ということに触れる。

「生きる意味」の問題を、「生まれてきたことの肯定」の問題へと変換…

「意味」の問題としてではなく、「肯定」の問題として設定したほうが、

より実りある成果に結びつくと思うからである」と。

 

「意味」の前に「肯定」。

なるほど!

そういえば、ドラマなんかで「なんで生きているかなんて考えないで、

まずは生きよう」とよく言われる。

ここまで書いてきて大好きな詩を思いだした。

          ↓

谷川俊太郎「生きているということ」より

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【引用】

生きているということ

いま生きているということ

それはのどがかわくということ

木漏れ日がまぶしいということ

ふっと或るメロディを思い出すということ

くしゃみをすること

あなたと手をつなぐこと

生きているということ

いま生きているということ

それはミニスカート

それはプラネタリウム

それはヨハン・シュトラウス

それはピカソ

それはアルプス

すべての美しいものに出会うということ

そしてかくされた悪を注意深くこばむこと

生きているということ

いま生きているということ

泣けるということ

笑えるということ

怒れるということ

自由ということ

生きているということ

いま生きているということ

いま遠くで犬が吠えるということ

いま地球が廻っているということ

いまどこかで産声があがるということ

いまどこかで兵士が傷つくということ

いまぶらんこがゆれているということ

いまいまがすぎてゆくこと

生きているということ

いま生きてるということ

鳥ははばたくということ

海はとどろくということ

かたつむりははうということ

人は愛するということ

あなたの手のぬくみ

いのちということ

 

 

 

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                             ちりとてちん

 

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