旅は、非日常的な世界に身をひたすことで何かを感じさせてくれる。
(「絶景」もその中の一つ)
温泉に身体をひたし、湯を手ですくいながら思う。
地中ふかくしみ込んだ大昔の雨が火山や(火山がなくても)マグマに温められ、
地層に含まれているさまざまな微小成分と溶け合って湧出したものがこれだと。
温泉はなくとも、わが街の近くでも同じような景色を見ても感じなかったものを、
旅にあると感じ、ときには「そうだったのか…」と感嘆することもある。
紀行文、テレビなどの映像でしか知らなかった旅先、その地に自分の足で立つ。
(本には、その場所はその時、その人にとっての「現地になる」と書かれてあった)
そして(自分が知らないだけで)そこには、この街や村、里で生きている人々の生活
暮しがあるというあたり前のことをしみじみ感じる。
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と、旅しているさなか(と、その後しばらく)は新鮮で、帰ってからも思いでに
ひたることもできるが、現実の世界は普段の生活、日常に戻っている。
そんな日常、ありふれた日々の景色にハッと感じ、「本当の意味における」
風景を見つけだしたい。
本はとても濃いもので、いろいろなことが述べられていましたが、前回の記事と同じく、
「本当の意味における」風景を見つけだすことがいちばん印象ぶかく、きょうもそれに絞ります。
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【引用】
①「意識の内容のほとんどは「非主題的なもの」である…
意識から締め出されているわけではないけれども、主題的に注意が向けられているわけでもない…
意識の大半は、…「注意の非主題的な対象」と呼ぶことのできるものによって占められており、
私の生活は、注意の非主題的な対象が占める広大な領域によって支えられているのです。
「非主題的なもの」の方が根源的である」
…
②「風景の経験は、地平からの不意打ちに対する反応として理解することが可能であり、…
風景の経験には何らかの発見が含まれ、何らかの「驚き」が認められます。…」
(注:①~④、「」(黒字)、太字太字はこっちでしました)
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①
ここで述べられている「意識」とは、「風景」みたいだと思った。
物事は意識しようとしなければ、意識にのぼらない。
風景は「見よう」としなければ、見えてこない。
(それまで気がつかなった物事に、「ああ、そうか。そうだったな」と納得することがある。
そういえば、朝ドラ『カムカム…』で「闇の中でしか見えぬものがある」というセリフがあった。
《注:夢のことではありません》)
ほんとうに大事なことは「非主題的なもの」のうちに隠れており、あるとき突然
「ひらめき」(ちょうど無意識から浮かびあがるように)のような直感にみちびかれて
現われる。
その時、いつも目にしている見慣れたものが特別な存在になる。
(むかし読んだ死刑囚の手記を思いだした。死刑が確定し、もうすぐ死ななければならない境遇に陥り
はじめて感じ思うことあまりに多く、目の前の一つの草や一本の木が輝いて見える)
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②
「風景の経験は、地平からの不意打ちに対する反応として…」
著者がいうところの「地平」とは、(別の個所に書かれているのですが)
「特に注意を惹くわけではないけれども、その都度…何となく見えたり
聞こえたりしているものの広大な領域」(①でいう「注意の非主題的な対象が占める
広大な領域…」に通じる)であり、そこでは「認識する私と認識される対象は
たがいに溶け合い、世界は主客未分の状態」だといわれる。
そこから突然、「不意打ち」を食らうように「何らかの発見が含まれ、
何らかの「驚き」が認められ」るように、風景は経験されるという。
(①と同じことの別ないい方だと思った)
つまり、見ているようで見ていない、見ていないようで見ている、
自分と周囲の景色が溶け合ったような(分かちがたく見えるような)なかで、
あるとき突然、不意に見えてくるという。
きっと、その「発見」「驚き」は、「いま私は、〇〇を見ている」との
自覚が生じた状態であり、自分の存在と周囲の風景の存在とはしっかり
分かたれているんだろうか。
そのとき初めて、「本当の意味における」風景が見つかるのだろうか。
(「死刑囚」のように死を自覚しなければ見つからない、見えないのだろうか)