カメキチの目

2006年7月10日が運命の分かれ道、障害者に、同時に胃ガンで胃全摘出、なおかつしぶとく生きています

2022.3.4  だれも「悪人」として平等

きょうは②と③を書きます。

 

② 自分自身の人間的成長のために

(「代受苦」という言葉を知り、とても心に響いたのでこれも書きます)

③ 人はだれも「悪人」として平等

 

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② 自分自身の人間的成長のために

 

【引用】

業思想はあくまで主体的事実として受け取られるべきものである

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「業思想」の中の、善いことをすれば何か善いことがあり、悪いことを行えば

何か悪いことが起きるという「因果応報」説、「善因善果悪因悪果」の話を

信じなくても、それを自分という「主体」にとっての「事実」として受け取り、

同じく「業思想」の中の、善人は死んだら極楽往生、反対に悪人は地獄に堕ちる、

生まれかわりを信じなくても、それを自分という「主体」には「事実」として

受け取ることは、自分自身の人間的成長のためになるという。

(まじめに生きる人々にとっては福音のような救いのある話だと思った。

現実の人生がどれほど苦しくても、どんなに辛いことが起きても、死ねば天国、極楽浄土の世界と

信じることが救いでなくて何だろう。

自律心の強い人は別にして、私のような凡人には自分で律するだけの信念は薄いので、「業」の教え、

その他律的な考えに強くうなずく《その教えが社会に規範となったのが懲罰的な法律だろう》。

善行をすすめ悪行を戒めるのは人類共通なので、小さな子どもでもわかるような昔話は世界中どこでも

見られる。

「小判がザクザク…、」「枯れ木に花が…」のようなのはいいから、「悪いことをしたら地獄に堕ちる」

の方は起きてほしい。

プーチンには天罰がくだってほしい。

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しかし、自分という「主体」、個人の力がとうてい及ぼない、どうしようもない

不条理な出来事が起こり、死んだり甚大な被害を受けることになったら、

その「事実」をどういうふうに納得、肚におさめればいいだろう?

 

本には「代受苦」という言葉、考えかたが述べられていた。

世のなかに満ちあふれているたくさんの苦しみ悲しみを、誰かが誰かに代わり

引き受けているというものだ。

業思想は観念だから主体的事実」としてとらえられたが、現実の圧倒的な苦しみ

悲しみを前にしたら受けるだけ、その「事実」に耐えるだけで精いっぱい。

主体的」などといえるわけがない。しかし、

代受苦」としてなら(「こじつけ」かもしれないが)とらえられそうな気がした。

東日本大震災に遭遇し、「なぜあの人は死んで、自分は助かったのか?」と、ご本人は哲学者で

ありながらも宗教的な深い境地からたどり着いた岩田さんの肚におさまった考えは「代受苦」だった)

 

ところが「代受苦」は、どうしようもない、避けがたい自然災害には最後の救い

なっても、戦争によるウクライナパレスチナシリア、アフガニスタンミャンマ…)

人々の苦しみ悲しみにまで及ばない。

及ぶはずがない。

(そうではあるけれど、戦争被害の当事者には不可能でも、直接にはその戦争の被害を受けていない

私たちはウクライナの人々が代受苦」を背負っていると想わなければならないのでは…と思った。

磔にされたイエス・キリストは、人間に生まれた限りは避けられない「罪」、苦しみや悲しみを

私たちに代わって一身に背負い、引き受けてくださっているのだろうか》

 

ロシアのウクライナ侵攻。

人類《プーチンも人類の一員》はどこまでバカ、狂っているのかと思った。

このことで、前に読んだ小説『アイの物語』の

ヒトは気がついてしまったのよ自分たちが地球の主人公にふさわしくないことに。…」を

思いださざるを得なかった。

(ロシア《というかプーチン》、バイデンなどNATO《世界の冷戦状態は終了したはずなのにNATO

日米安保存続》自由主義諸国」にとって、「社会主義国」と呼べるかどうか怪しくなっても中国

ロシア、北朝鮮はいつまでも仮想的国家であらねばならない《そうでなくては軍需産業は成りたたない

戦争がなくなっては、戦争のおそれがなくなっては困るのだ》

 

 

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③ 人はだれも「悪人」として平等

 

【引用】

浄土教における業と平等

そもそも浄土教阿弥陀仏の救済力を頼み、それに与って往生することを目指す仏教である。

つまり、人間の側から我々の業を考えれば、人によって大きな業の差があるように感じられるが、

これを仏の側からみたとき、その差は問題にならない。

阿弥陀仏法蔵菩薩の時代に積んだ修行功徳と比較すれば、我々の積む善業の差は〈無〉に等しい

キリスト教の原罪と異なり、仏教の説く業〈宿業〉は人によって違うが、…

阿弥陀仏の慈悲(救済の力)が極度に大きく、それにともない、人間の力は相対的に小さくなる。

すると、人それぞれが有する悪業の大小や軽重も相対的に小さくなり、

有情すべてが阿弥陀仏の他力を頼むという点からすれば、悪人として平等ということになる。…

阿弥陀仏の前においては皆、凡夫として平等

 

親鸞の有名な「善人なおもて往生す、いわんや悪人をや」という悪人正機説

知ったときは衝撃を受けた。

ところが自分の理解は浅かった、薄っぺらだったと痛感させられた。

 

業を「人間の側から我々の業を考え」るのでなく「仏の側からみたとき、その差は

問題にならない」という。

阿弥陀さんは、「阿弥陀仏」という仏(如来)になる前の修行時代(菩薩)は法蔵菩薩と呼ばれ、

菩薩の積んだ「修行功徳と比較すれば、我々の積む善業の差は〈無〉に等しい」わけだ)

 

前に「森友事件」の「子ども大人のA」のことを書いたけれど、

Aと仏の側からみたとき私も変わらない。

(「森友」だけではなく、世間を震撼させるようなおぞましい事件の犯人も人間なのだ。

条件さえ同じなら、自分だって同じ罪を犯した「かもしれない」。

ウクライへナの攻撃を命令したプーチンと、ロシア国内での反戦を叫ぶ人たちに暴力をふるう警官と

人間として自分は同じなのだ)

 

悪人として平等」が、胸にひびく。

 

 

                 

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                           ちりとてちん

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