本を読んだりテレビを見ていたら、ある言葉や文章、セリフ、考え(方)に出あい
気になることがある。
それが刺激となって、膨らんでいくこともある。
(ときには膨らみ過ぎ、元の全体的な主題からはずれ、そっちを忘れることも起きる。
それどころか《読書のばあい》この一言、文章に遇うために、ここまで読んできたと思われ
最後まで読むのが面倒くさくなり、途中でやめることもよくある)
が、それでいい。
(年寄りには残された時間は少ないのだ)
『路地裏で考える―世界の饒舌さに抵抗する拠点』 平川克美・著
という新書本を読んだ。
(グーグル画像より)
これも最後まで読まなかったけれど、いくつかのことが強く心に残った。
「あー、どこかで聞いたことがある」という感慨を抱くものばかりだったが、
私みたいな凡人には、人生に大事なことはこうしてときどき、どこかで誰かからか
思い出させてもらわなくては…。
三つのことを。
(きょうは一つ、①だけ書きます)
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①
【引用】
「〈「すでに去ったもの」が「あとから来るもの」に受け継ぐ贈与関係〉
石工は、仕事を通して、「あとから来るもの」とコミュニケーションしていたのである。
そこにはもはや自分はいないが、自分もまた、「すでに去ったもの」(=死者)からの贈与を
受け継いでいると感じている。
だから、自分も「あとから来るもの」へ贈与する気持ちで、恥ずかしくない仕事をする」
…
死者とのコミュニケーションは、「いまだけ、ここだけ」とは違う生き方を
教えてくれる。贈与・喜捨という交換もそのひとつである」
(注:「」〈〉、太字太字はこちらでしました)
引用は石工の話で、石垣か何かを造り、築いているのだろうか。
きちんとていねいな、後の世の人に恥ずかしくない仕事をしようと。
(グーグル画像より)
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「すでに去ったもの」が「あとから来るもの」に受け継ぐ贈与関係
他人が見ていないと、とかく人はズルをしがちだ。
(ズル、手を抜くこと自体がいけないではない《ロシア兵は大いに手を抜き任務をサボればいい。
いや放棄すればよい》。どういう仕事、何に対してかが、まず問われなければならない)
「人が見ていない」といっても、その人はいま現在の人なのであって、
「すでに去ったもの」過去の人のことではない。
直接、目に見えないところで(「暗闇でしか見えぬものがある」)受け継がれている
大事なもの、贈与関係。
「いま現在」だけではなく、時間を超えた過去、未来にまで、いま現在の自分が
贈与関係を通じて結ばれ、繋がれているということを強く感じた。
(「現在」「過去」「未来」とその関係はよくいわれるけれど、贈与を間におく考えは私は初めてで
とても新鮮に感じられた。
なるほど、贈与とはとても普遍的なものなのだ《私は「もらう」「あげる」という卑近なことしか
思いつかなかった)
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「死者とのコミュニケーションは、「いまだけ、ここだけ」とは違う生き方を
教えてくれる。贈与・喜捨という交換もそのひとつである」
「いまだけ、ここだけ」から「だけ 」を抜き、「いま、ここ」に目を向ければ、
死者という形で過去になった人との対話「死者とのコミュニケーション 」ができ
(同じようにまだ来ぬ未来の人とのコミュニケーションも可能となり)、
「いまだけ、ここだけ」をたいせつにするのとは違う生き方を教えてくれるという
(過去の人々からの「贈与・喜捨」があればこその現在。現在の「贈与・喜捨」があってこその未来)
これほど生きてきて、自分がこうして世の中に存在し生きていることは、
まったくの偶然、奇跡的な事実だということが強く感じられるようになった。
「いまだけ、ここだけ」とは違う生き方をしたいと思うように変わってきた
気がする(いたらぬ人間なので「気もち」だけですが)。