カメキチの目

2006年7月10日が運命の分かれ道、障害者に、同時に胃ガンで胃全摘出、なおかつしぶとく生きています

2022.4.19 『路地裏で考える…』

本を読んだりテレビを見ていたら、ある言葉や文章、セリフ、考え(方)に出あい

気になることがある。

それが刺激となって、膨らんでいくこともある。

(ときには膨らみ過ぎ、元の全体的な主題からはずれ、そっちを忘れることも起きる。

それどころか《読書のばあい》この一言、文章に遇うために、ここまで読んできたと思われ

最後まで読むのが面倒くさくなり、途中でやめることもよくある

が、それでいい。

(年寄りには残された時間は少ないのだ)

 

『路地裏で考える―世界の饒舌さに抵抗する拠点』 平川克美・著

という新書本を読んだ。

                         

                             (グーグル画像より)

これも最後まで読まなかったけれど、いくつかのことが強く心に残った。

「あー、どこかで聞いたことがある」という感慨を抱くものばかりだったが、

私みたいな凡人には、人生に大事なことはこうしてときどき、どこかで誰かからか

思い出させてもらわなくては…。

 

三つのことを。

(きょうは一つ、①だけ書きます)

 

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【引用】

「〈すでに去ったもの」が「あとから来るもの」に受け継ぐ贈与関係

石工は、仕事を通して、「あとから来るもの」とコミュニケーションしていたのである。

そこにはもはや自分はいないが、自分もまた、「すでに去ったもの」(=死者)からの贈与を

受け継いでいると感じている。

だから、自分も「あとから来るもの」へ贈与する気持ちで、恥ずかしくない仕事をする

 

死者とのコミュニケーションは、「いまだけ、ここだけ」とは違う生き方を

教えてくれる。贈与・喜捨という交換もそのひとつである

 

(注:「」〈〉、太字太字はこちらでしました)

 

引用は石工の話で、石垣か何かを造り、築いているのだろうか。

きちんとていねいな、後の世の人に恥ずかしくない仕事をしようと。

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                          (グーグル画像より)         

               

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「すでに去ったもの」が「あとから来るもの」に受け継ぐ贈与関係

 

他人が見ていないと、とかく人はズルをしがちだ。

(ズル、手を抜くこと自体がいけないではない《ロシア兵は大いに手を抜き任務をサボればいい。

いや放棄すればよい》。どういう仕事、何に対してかが、まず問われなければならない)

「人が見ていない」といっても、その人はいま現在の人なのであって、

「すでに去ったもの」過去の人のことではない。

直接、目に見えないところで(「暗闇でしか見えぬものがある」)受け継がれている

大事なもの、贈与関係

 

「いま現在」だけではなく、時間を超えた過去、未来にまで、いま現在の自分が

贈与関係を通じて結ばれ、繋がれているということを強く感じた。

(「現在」「過去」「未来」とその関係はよくいわれるけれど、贈与を間におく考えは私は初めてで

とても新鮮に感じられた。

なるほど、贈与とはとても普遍的なものなのだ《私は「もらう」「あげる」という卑近なことしか

思いつかなかった

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死者とのコミュニケーションは、「いまだけ、ここだけ」とは違う生き方を

教えてくれる。贈与・喜捨という交換もそのひとつである

 

「いまだけ、ここだけ」から「だけ 」を抜き、「いま、ここ」目を向ければ、

死者という形で過去になった人との対話死者とのコミュニケーション 」ができ

(同じようにまだ来ぬ未来の人とのコミュニケーションも可能となり)

「いまだけ、ここだけ」をたいせつにするのとは違う生き方を教えてくれるという

(過去の人々からの贈与・喜捨」があればこその現在。現在の贈与・喜捨」があってこその未来

 

これほど生きてきて、自分がこうして世の中に存在し生きていることは、

まったくの偶然、奇跡的な事実だということが強く感じられるようになった。

「いまだけ、ここだけ」とは違う生き方をしたいと思うように変わってきた

気がする(いたらぬ人間なので「気もち」だけですが)

 

 

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                           ちりとてちん

 

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