今日で終わり。
三人の方です。
―「助け合い」が大切にされる社会―
「出会ってしまったらしかたない」
このひと言が、つよく胸に響いた。
(この人は社会的に弱い立場におかれた人々を援ける活動をされている)
コロナ禍がなくても、もともと不安定な、苦しい生活を強いられてきた人たち。
コロナがあろうとなかろうと、雨宮さんは変わらない。
人生は「出会い」の連続ともいえる。
「出会ってしま」ったことに、ごくたまに何かピピっとくるときがある。
それを「運命」と受けとめ、その偶然的な出来事をたいせつにしていくこともある
(裏がえせば、その「ピピ」に「縛られる」ことだといえる。
雨宮さん、きっと昔、自分自身がつらい目に遭われたのだろう)
それを「運命」と思うようになるかどうかはその出会いの受けとめ方にかかって
いるのだろうか。
人は誰でも、出会いのすべてに真面目、丁寧に対応していたら身がもたないので
自分の信念のようなものに照らしあわせ、適当に取捨選択せざるを得ない。
雨宮さんは支援活動を、弱い立場にある人たちに
「出会ってしまったらしかたない」からやり、続けているだけといわれる。
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ー医療が無料であることー
【引用】
「〈なぜ医療費を無料にできないのか?〉
「お金の計算」にそぐわない分野、というのは、常に、あるのではないでしょうか。
医療や教育は本来そういう分野であったはずです。…
〈二つの真理〉
COVID-19禍によって私たちが気付くべき不変の真理は
(1)人は必ず死ぬ。
(2)自分が本当にしなければいけないことは何もない、の二つです。」
「「お金の計算」にそぐわない分野」
金持ちも貧乏も、たまたまそうである、あったに違いないのだ。
生まれた家が金持ちであったか、貧乏であったか…
出あいに恵まれ「成功」したか、恵まれず「失敗」したか…
そういうウン、偶然とは関係なく、誰もが安心して人生を送られる。
福祉、医療(誰もが安心して人生を送られる)ために教育があるといってよいと思う。
「福祉国家」という言葉があるけれど、政治とは本来それを目指すためのもの
ではなかろうか。
だって、
(1)人は必ず死ぬ。
(2)自分が本当にしなければいけないことは何もない
コロナ禍はそれを明らかにしてくれた。
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釈 徹宗
ーロゴスとレンマー
【引用】
「インドでは「Aは事実であり非事実である」「Aは事実でもなく非事実でもない」などと、
形式論理学に沿わない論理が発達します。→(「レンマ」)
矛盾をひとつの論理のあり方として取り扱うのがレンマです。
矛盾も含めてまるごと全体的に把握する手法→(「空」の理論)
「二項対立」「二者択一」のワナに足元をすくわれないための知性」
生きてきた年数が少ないので、中高生にはちょっとわかりにくい話のような気が
したけれど、長く生きている者には深くうなずけた。
生きておればさまざまな出あいがあり、いろいろなことを経験する。
そのなかに時として「ディレンマ」、つまり「矛盾」を感じることがある。
そのディレンマ、矛盾を抱えて生きなければならないことが長い人生の中では
避けられない場合もある。
生きぬくため、生きつづけるためには「矛盾も含めてまるごと全体的に把握する」
ことが必要不可欠なほど大切になることだってある。
(人生や世のなかは、黒い・白い、好き・嫌い、正しい・誤っている、成功・失敗、男性・女性…など
一見したところ相反する物事を、単純に割りきることでは成りたたない)
コロナは、「レンマ」的な生き方というものを教えてくれた。
(でも、私は小さい人間なので、公共の場で「清濁併せ吞む」のような器用なマネはできない)