戦争を思うと、かならず「狂気」を連想する。
(「狂気」とは、何かを妄信したときの気迫のようなものだろうか)
狂わずして、殺戮できる者がいようか。
狂わずして、大声あげて藁人形を、竹やりで突き刺さす女や子どもがいようか。
人を殺す行為を「これは戦争」「お国のため」と自分を納得させようとしても、
狂わなければできない。
躊躇っていては、できない。肝心なのは一気飲みみたいな「一気」ということ
エエィ、ヤッチ(殺してし)マエ!
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私のいる関西のテレビ局では、制作スタッフの意欲がひしひしと伝わってくる
終戦記念日特集が放映された。
(いつもの地域ニュースの中で終戦特集として流されたもので二つみた。
二つとも今になって初めて明らかにされるもの。あまりに悲惨なできごと。そういう事実があったこと
自体が「軍の機密」ということで内密にあつかわれ、その事実を目撃、かかわった地元の人たちは話す
ことさえできなかったという)
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私の若いころ、ベトナム戦争が、水俣病のような公害が、いまなお続いている
沖縄の米軍基地問題もあり、社会の不合理や矛盾に敏感にならざるを得なかった。
(自分の場合、「ならざるを得ない」ような偶然、環境があったと思っている。
そのころ「格差」はまだ社会問題になっておらず、言葉さえなかった)
社会を変えなければ…と当時は本気で思っていた。
(当時、「社会変革」といえば、資本主義社会から社会主義社会へのこと。
私が理想とする社会というのは、生まれや生きていく中での運・不運にあまり影響されない、
生まれてよかったと感じる世の中のことだから、いま思えば「社会主義」でなくてはならないわけでは
なかったのだ)
社会が変わり理想的になっても、その社会に恥ずかしくない人間であるよう、
私たち自身が成長しなければならないと、倫理の手本のような「自己変革」という
いまでは顔を赤らめなければとても言えない言葉を口にした。
(「自己変革」といっても、「聖人君子」にならなくていい。
自分の欲得のために他人をダマすような行為を恥じる感覚をそなえた者であればいい)
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自分の目や耳で実態、事実を知ることはなく、ただ社会主義・共産主義は
すばらしいものだと信じていた。
(初めに書いた「狂気」まではいかなくても、社会主義を妄信していた。
そのころ読んでいた日本共産党の機関紙「赤旗」はチャウシェスクというルーマニア大統領を
称賛していた《日本共産党も妄信していたのだろうか》)
オリンピックはいつ頃からか国威発揚の場になっていたが、ソ連や東ヨーロッパ
(とくに東ドイツ)の活躍が目だっていた。
その頃はすでに「最後のあがき」に突入していたのだろう。
結局、ソ連邦も東ヨーロッパもつぶれ、1世紀も続かなかった。
(国民に反発をくらった結果。歴史の必然。
それはいいけれど、戦争は絶対いけない。
現在、同じソ連邦を構成していたロシアは強大な軍事力でウクライナを侵略。
経済だけ資本主義を採りいれ成功し、まだ社会主義を続けているかのような中国は、
これも強大な軍事力を背景にチベット新疆で人権侵害をはたらき、香港に邪悪な介入をし台湾を脅迫。
こんな動きと現状を見ていると、社会体制の問題はすでに終わったかと思わざるを得ない)
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人間はその社会でしか生きられない。
だから、その国の政治は決定的にたいせつだとしても、われわれ庶民にとっては
(自動車、家電、スマホなど生活そのものを豊かにしてくれる)身近な「科学技術」、
その原動力といえる欲望(「便利」「快適」)を自由奔放に発揮できる「資本主義」は
人間の本質に根ざしているのかもしれない。
(「資本主義」は社会経済の基本的なあり方を表わす用語だから、そう呼ばないわけにはいかないが
あえて「資本主義」といわず、これからは「科学技術至上主義」とか「人間欲望至上主義」とでも呼ぶ
としようか。
ずっと前、モンゴル大平原のパオで、中国の山岳地帯で、アマゾンの奥地で、現地の住民が器用に
携帯電話を操作し生活に役だてているのをテレビでみ、「科学技術」は社会体制、世の中のしくみを
超えている、政治や国境も超えているのじゃないかと強く感じた。
7.15の記事、「ポストコロナ期…」での白井聡さんの「技術の発展は社会の在り方を…変えてゆく…
社会の在り方は、その社会の持つ技術によって決定される、という考え方は「技術決定論」」を
思いだした)
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いまは社会変革(たわ言のような「自己変革」も)を非現実的と思うように変わった。
そっちは「非現実的」と思ってはいても、現実の政治は耐えがたく酷い。醜い。
変えたい。変えられる。
日本共産党(名前はイメージにつながる。私は党名を変えてでも、もう少し《ここが肝心どころ
「もう少し」》大きくなってほしい。今のようにごく小さいままでも変えない頑なさがいいと思う
人もいるだろうし、事はむずかしい)は、一貫して変わらずは労働者、女性、子ども、
障害者など弱い立場の国民の側に立ち、大企業の横暴を抑え(法人税を適正に納めさせ
できることは多い)中小企業を支援、育成する政治をおこなうと具体的に政策を掲げ
主張している。
日本共産党は、自民・公明の与党を弱体化させようと本気で野党の「大同団結」を
呼びかけているが、立憲や社会、れいわだけ応じ、他はなんだかんだと理屈をつけ
共闘を拒む。
(「共産党とは手を組めない」が自民・公明とは組む)
自分たちの「党利党略」「わがまま」が、与党を利している現状がわからないほど
彼らはバカなのだろうか。
(権力と「統一教会」とのつながりなど、こんどの事件がなければ闇に埋もれたまま、国民の前に
明らかになることはなかった事実の存在。
恐ろしいこと。ただの一般国民では知りえぬ「陰謀」「策略」が政界にはウヨウヨ)
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どこまでも止まらない科学技術(それによってかき立てられ、止むことのない欲望)により
社会の在り方が決められる技術決定論を採用しない政治(「利用可能な技術のうち、
どの技術が用いられ、どの技術が用いられないのかを」庶民が決められる社会を実現させる)を
国民が望むなら、
日本共産党(立憲民主党、社会民主党、れいわ新撰組も)ならしてくれそう。
だって、日本共産党は50年も変わらないことを政策に掲げている。
(「アカ」という偏見がまだ残っているのだろうか?
なんでこの党が大きくならないのか?私は「日本の政治七不思議」に加えたい)