カメキチの目

2006年7月10日が運命の分かれ道、障害者に、同時に胃ガンで胃全摘出、なおかつしぶとく生きています

2022.9.2 「生きる希望を感じる社会」

               ー おことわり ―

当ブログはほとんど読書感想です。

読んで感動したこと、新たに知りとてもよかったと感じたことなど、そういうことは自分のためだから

普通の日記に書けばいいことですが、せっかくブログがあるので…と思いやっています。

(じつは障害者になって直筆が苦手となり、後で読める文字が書けなくなったこともありますが)

 

で、読みやすい紹介の書き方はできないかと迷い推敲をかさねていますが本全体をわかりやすく

まとめる能力は自分にはないとあきらめ、強く感じたいくつかだけを取りだし書いています。

これからもそれは変わりませんが、【引用】の注意書きは煩雑なのでやめ書き方も工夫してみます

これからもよろしくお願いします。

 

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身のまわりに目をむければ気もちのよい人が多く、生きていてよかったと感じる。

しかし、まったく縁のない権力が蔓延している(でも関わざるを得ない)政治社会は、

生きる希望を感じる」なんてまったくムリな話。

 

「生きる希望」は、人間は生きなければならないので、個人のレベルでは可能

でも、霊感商法」の旧統一教会(現「世界平和家庭連合」)との関係が明らかに

なっても、なお○○元首相の子分であろうとし、親分の死に国費2億5000万円

かけて国葬」しようとする社会のレベルでは不可能。

 

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だけど、『超高層のバベル』 見田宗助・著建築の本ではありません)を読んで

 ウソではないと思った。

 

(「生きる希望を感じる社会」は②で、先に①「超能力、霊感のようなもの…」を書きます)

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① 超能力、霊感のようなものへの憧れ、依存

オウム教祖の浮揚のような超能力のあれこれは、著者は存在する思うと述べる。

超能力を不思議がり憧れるのもいいけれど、「それがどうした」「だから何だ」

と思うのは、もっとたいせつなことではないかと続けて述べる。

 

私にすれば、自分がどれほど努力・修行に励んでもとうてい出来そうにもないこと

(やってみる前からあきらめているが)が出来る人は、それだけで「超能力」者。

(自分にとっては「超能力者」は無限に存在する。器械体操の内村航平なんて「超・超能力者」

 

スポーツに限らず音楽などの芸術家も「超能力者」。

この人たちの卓越した能力は、同じ人間としてのすばらしさを味わせてくれるし、

楽しませてくれる。

 

だけど宙に浮くのは、ただ宙に浮いたというだけのこと。

(スプーンを手を使わず曲げるのも同じ。「それがどうした?」)

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宙に浮く「超能力」と「霊感」はもちろん違う。

前者は「人畜無害」。後者もそのままでは無害でも、「宗教」と結びついて信者を

「マインドコントロール」し、「商売」に利用した霊感商法」となれば人を

不幸のどん底つき落とす。

(かつてオウムも「霊感」でマインドコントロールし、優秀な頭脳をもった若者たちを幹部に抜擢

未曽有のテロ、地下鉄サリン事件」を起こした)

 

政界とのズブズブの癒着ぶりの一部が次々に明らかにされている「統一教会」。

国際勝共連合と切っても切れない仲にあり、共産主義」に「勝つ」団体。

なので代々の自民党「大物」議員らと深い関係にあったというのはわかるし

「ウィンウィン」の関係もわかるけれど、

「霊感」商法とはどんな関係があるのだろう?

(そもそも「社会主義」「共産主義」は地に落ちているので「勝共」といわなくてもいいのでは?

なぜ「ズブズブ」「ウィンウィン」なのか?

なぜ統一教会は政治家に金を貢ぐのかを三段論法で考えてみた。

①政界に大きな影響を及ぼそうとすれば「大物」政治家に近づかなければならない

②それには大金を貢がなければならない。

③大金を得るためには人をダマすのがいちばん簡単。

 

「ダマす」とは別名「マインドコントロール」。その恐ろしさを思う。

きっと、心が空虚で何かにすがりつきたい、ある意味、心が純真な人がかかりやすい。

正反対にもっともかかりにくいのは、自らの野心、欲得のためには宗教であろうと平然、屁のカッパの

ごとく《何でも》利用しようとする政治屋ども。

彼らは「霊感」「超能力」をバカにしている《カネのような現世利益がすべて》。

彼らを私たちの政治代表、議員から引きずり下ろそう

 

霊感商法」が出てきた時代は、まだ携帯電話という「文明の利器」はなかった

ので「オレオレ詐欺」もなかった。

 

       

(クモの巣 右下のほう、ほんの少し陽光に照らされ🌈色がかっているのがおわかりでしょうか)


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② 生きる希望を感じる社会

こういうことが書かれていた。

【引用】「(社会主義も資本主義も)どちらの体制もいやだ、という意識はソ連や東ヨーロッパの

社会主義体制が倒れるまでも)かなりあったと思うのです。…

今まで西側の中でも両体制ともよくないということで、乗り越えようとする真剣な声が…あった…

皮肉なことに、勝った者(西側)があまりにも劇的な大勝利をしたものだから、そういう模索

社会主義でも資本主義でもない)が吹っ飛んでしまって、もう資本主義でいいんだ

ということになった。

現在の「新自由主義」のイデオロギーは、「競争する自由」だけを煽るということで、

「競争しないで生きる自由」を実際上、抑圧してしまう。

「社会的に必要な仕事」だけについては、現代の技術と情報の水準をもってすれば、

これで十分に実現できる。…

何万年かの人間の歴史の中で、人間は初めてそのような生産技術の高さまで達したわけです。

「近代」の資本主義、共産主義という二つの体制に共通していたホモ・エコノミクスという

経済的な価値だけに生きる人間像からの解放、生き方の方向性を選ぶ自由の獲得ということを通して

人間は新しい自由の地平に立つことができると思う。…

もう一つの大きい問題…地球環境の有限性の露呈(を考えなければならないが)」

 

その気さえあれば、社会主義でも資本主義でもない(その政治体制、社会システムが何と

呼ばれるのか現在はわからないけれど)社会に移行する可能性があるということ。

科学・技術のおかげで物質的にはこれほど豊かになったので、

あとは社会(国家)の管理・運用を「技術決定論(下記参照)もとづかない、

みんなが「生きる希望を感じる社会」に変えていくだけ。

 

「技術決定論」とは

【引用】技術の発展は社会の在り方をどんどん変えてゆく、すなわち社会の在り方は

その社会の持つ技術によって決定される、という考え方は「技術決定論」と呼ばれます。…

利用可能な技術のうち、どの技術が用いられ、どの技術が用いられないのかを決めているのは、

その社会の在り方なのです。…

資本主義社会では生産力を絶えず向上させることが至上命令

もう十分」とか「ほどほどにしておこう」といった常識に基づく判断は、

資本主義社会では通用しません

 

ソ連や東ヨーロッパがつぶれた「冷戦終結」前に、

今まで西側の中でも両体制ともよくないということで、

乗り越えようとする真剣な声が…あった…けれど、

皮肉なことに、勝った者(西側)があまりにも劇的な大勝利をしたものだから

そういう模索社会主義でも資本主義でもない)が吹っ飛んでしまって、

もう資本主義でいいんだということになった」

とは、知らなかった。

 

社会主義でも資本主義でもない」社会、

「生きる希望を感じる社会」の到来を信じたい。

 

 

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                           ちりとてちん

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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